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■これまでの自信作発表



★「憂世」から「浮世」を希求した戦国武将・荒木村重とその子孫たち  
[  竹本 弘子 ]
2013/02/10


《戻ってこい秋刀魚の背中にのってこい》
 東日本大震災で被災した宮城県女川一中生の俳句集の一首である。私は、女川町の秋刀魚収穫祭に参加し、震災の大きな爪跡や丸々と太った秋刀魚を見たばかり、読み手の悲しみが胸に刺さった。突然に身内の生命を奪われた生徒の心情は如何なものであったか。震災も戦争も悲惨さは同じだ。世界では内戦が多発、飢餓に苦しむ女や子どもたち、しかし、その裏で暗躍する死の商人=B戦は連鎖して拡大する。人間の異常な征服欲が引き起こす戦争は絶対に無くしたい。昨年の東日本大震災で多くの命が失われて、改めて命の尊さと絆の大切さを皆が実感した。
 歴史ブームの現在、特に戦国時代は人気がある。当時の武将は個性が強く、下剋上が日常茶飯事で、力ある武将に集約されていく過程、将に戦国乱世。そこに登場する武将の一人、摂津有岡(伊丹)城主荒木村重は、生き延びたから卑怯者≠フ烙印が捺され、歴史の中に葬り去られようとしている。生きることが何故卑怯か、私はその点に素朴な疑問を持った。
 私自身、第二次世界大戦末期にジフテリアに罹り、一本の血清で命拾いしたばかり、その直後の大空襲で死の淵に立った時、絶対死んでなるものかと心が燃えた。
 命が軽んじられた戦国時代と同一視してはいけないといわれるが、武士当人にとれば死に瀕する苦痛は過去も現在も変わらない。歴史的にみても、人間は戦を繰り返している。
 私は、村重の関係地に足を運び、村重の息吹を肌で感じ、地元で研究されている人から話を聞くうちに、世間の通説に反する村重像が浮かび上がってきた。人命を尊重した村重は悪人どころかむしろ善人である。
 歴史は勝者が作り、敗者は事実以上に悪人に仕立て上げられていることを知り、愕然とした。
 落城の悲劇に見舞われながらも、苦しみをバネとして生命を全うした稀有な武将荒木村重≠ノ私は光を当てたいと思っている。

武人としての村重

 村重は天文四年(1535)摂津坂根で誕生。堺で天正十四年逝去、堺南宗寺に葬られたとされる。南宗寺には三好一族、利休をはじめ多くの茶人の墓がある。
 元亀二年(1571)八月、白井河原合戦(茨木)。村重は茨木佐渡守を、中川瀬兵衛は和田惟政を討ち取る。
 元亀四年三月村重は信長入洛時に細川と共に逢坂に迎え、大ごうの御腰物を信長より賜る(『信長公記』)。七月信長は、真木島に将軍義昭を攻め、追放した。村重も参戦。しかし、足利幕府は滅亡していない。
 天正二年、村重は伊丹城を攻略して改修し、惣構の城(町ぐるみ城塞)を築き本拠地とし、有岡城と改名した(国指定史跡)。有岡城は中世から近世への移行期の重要な城である。村重の入城以降、百姓や職人の圧倒的動員力に依り大規模に改築された。東に猪名川が流れ、地形上自然の要塞である伊丹段丘の高低差を利用し、城郭は南北1・7`b、東西800bに及ぶ。惣構内部は土塁・堀によって侍町と町屋に分離、町屋地区では町割が整然と行われ、両側町が成立し同職集住。家臣団屋敷を配した内郭、町屋や寺院の並ぶ外郭からなる。市場を取り込み、より強固に商工業者の活動を把握・支配した。
 要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦を配置し、有事の際に周辺村落の受け入れ地となる空閑地を有している。摂津のどの城郭の惣構よりも本拠地を広く囲み込み、領主と町に住む民衆との共通意識と、民衆が領主の城を避難所として利用できる構造である。有岡城を中心に同心円的に家臣を配置。港を重視して尼崎城・花隈城を港近くに築城。瀬戸内海を東西に結ぶ。後、瀬戸内海は村重の命を救った。花隈城近くの神戸港は現在も良港として活用されている。
 村重は摂津に大規模用水灌漑を取り入れている。猪名川の上流で用水に取り込み、各所に分水堰を設けて田に水を掛け、末流ではそれを集め次の地区に分水する。猪名野台地の全水田に水を掛け流して行く壮大な水利図がある。猪名川の分水水利は有岡城外構えの濠と密接に関係している(鈴木充広島大学名誉教授)。
 信長より「摂津国一識」を仰せ付けられた村重が、摂津を独力で統一し、摂津における文書発給を独占。天正四・五年は安堵状や禁制を発行しなくてはならない状況や軍事行動、百姓一揆も摂津では起こっていないことから村重の支配が安定していたことが分かる(『戦国期三好政権の研究』天野忠幸著)。
 天正三年八月、信長は越前一向一揆を攻撃、村重も参戦。天正四年村重は石山包囲の目的で摂津十ヶ所に城砦を築く。翌年、村重は信長の泉南、雑賀の一向一揆攻めに従軍、天正六年二月、村重は石山城の顕如のもとへ和睦交渉に出かけるが不首尾に終わる。その上、城中の飢餓に苦しむ顕如から食料を懇望され、断りきれずに兵糧米百石を城内に入れたことが、本願寺と通じていると讒言された。また、上月城での戦意喪失、神吉城攻めでは、和を乞うた神吉藤太夫とは村重が昵懇の者だった故に一命を助けたことなど、それ以後、村重は有岡城に引き籠ってしまった。ついに、村重は天正六年十月本願寺・毛利などと反信長包囲網を形成して信長に反旗を翻したのである。十一月、村重は一万騎で有岡城に籠城。
 村重は、信長に従軍するうち、信長の性格の奥に潜む残虐性と狂気に気付き、信長からの決別を図った。『フロイス日本史』の中に家臣たちの望んでいることとして戦争の危険と辛苦に曝されないで放蕩(平和を願う)に身を委ねるとある。村重一派は信長の強引な戦争政策への批判的な立場をとっていた。
 信長は村重を優遇していると思っていたので、村重が打算以外の動機での謀叛が信じられなかったのである。村重が反信長包囲網に加わることは、西国進出を企てる信長が不利になる。慌てた信長は使者を有岡城に遣わせて村重の叛意を諌めている。しかし、信長の甘言に乗ってもいずれ滅ぼされることは自明の理であることを村重は感じていた。信長に従軍すれば、先鋒として近隣の武将や本願寺の顕如と戦い、交渉もしなくてはならない。信長家臣団は敵地へ侵略するのだから、武将たちは名を挙げたいと無慈悲な行為が平然とできる。しかし、摂津で生まれ育った村重にとって近隣の本願寺や播磨攻撃は苦痛であった。戦意を失っても無理はない。
 しかし、村重の糾問使として有岡城に派遣された信長の重臣たち(松井友閑、明智光秀、万見重元、羽柴秀吉)を殺害することなく信長の元に返している。しかも、信長と戦うに臨んで、村重は敵方となった武将の縁者や人質も殺すことなく全て返している。村重の長男村次の妻明智光秀の長女(細川ガラシャの姉)は親元に帰ると三宅弥平次(後の明智秀満)と結婚し、彼は明智光秀の片腕となって働いている。高山右近が信長へ降伏したことは村重に大打撃を与えたにも拘わらず、右近の嫡男、父、妹も返している。
 黒田官兵衛も、城主から殺せとの密命をうけながらも、牢屋に入れたままで殺してない。後に、官兵衛は感謝して、村重の子孫を黒田藩に召し抱えた。荒木家の墓は博多区妙楽寺にある。息女は黒田家臣の間家・田代家の正室として迎えられた。また、息子又兵衛の歌仙絵が福岡若宮八幡宮で発見されたが、その当時は何故福岡にあるのかが分からなかった。
 信長の有岡城攻めは天正六年十二月に始まり、有岡城は籠城十ヵ月に及ぶ。その間、籠城に耐えたのは、有岡城が堅固であったからだ。村重は城造りの鬼才といわれている。
 近世の伊丹郷町はこの惣構え部分に形成され、落城後も衰退せず、酒造技術で発展、周辺産業も興して経済を支える一方、旦那衆を中心に俳諧などの文学を隆盛にした。江戸時代には江戸積酒造業の中心として繁栄し、日本を代表する酒どころとなった。有岡城は、宣教師ルイス・フロイスが《甚だ壮大にして見事なる城》と書き残したほどの名城。安土城より二年早く築城された。有岡城は「民」と共に生きる目的で築城。街は現存して使われている(信長は自分の権力を誇示するために強固な石垣を廻らせた安土城を築き、絢爛豪華に飾りたてた。安土城は領民を守るためではなく、信長自身を守るための防衛の城)。
『信長公記』巻12 《荒木伊丹、城・妻子捨て忍び出づるの事》、この記載が村重の評価を下げているが、実際は、城・妻子を捨てたのではない。有岡城内の起死回生を求めて、海から、毛利軍や雑賀衆の援軍を呼び寄せ、新たな戦局打開のために嫡子村次が拠る尼崎城へ数人の供と共に移った(『陰徳太平記』には援軍要請のために脱出と記載)。尼崎城には毛利方の桂元将が来ていた(天正七年九月二日)。その直後(九月十一日)に「一刻も早く待ち申し候」と援軍要請の書状を中村左衛門九郎・武田四郎次郎宛(伊丹市立博物館蔵)と乃美宗勝(小早川水軍の主力、隆景の武将として最も活躍)に送っている。反撃の機会を狙っての村重の緊迫した書状が複数発見され、産経新聞(平成16年11月20号)でも大きく報道された。
 逃亡説を打ち消し、汚名返上の貴重な書状である。
 村重が敵前逃亡したのではなく、住民を見捨てたのでもない。戦闘意欲が十分あったので自害しなかったのである。有岡城落城の後の十二月十三日、村重の居る尼崎城の眼前の七つ松で信長軍は荒木一族郎党を焼き殺し、妻子親族は引き回しの上、六条河原にて斬首。信長の家来太田牛一さえも『信長公記』に詳しく書いているが、処刑は見る人を戦慄させるほどの凄まじさであった。村重が信長の城の明け渡しの説得に応じなかった結果といわれるが、無抵抗な女や子どもを惨殺してよいものであろうか。信長の狂人的な殺戮は見せしめにはなったが、結局、その刃は本能寺の変で信長自身に向ったのである。村重が尼崎から花隈へ移ってからも七ヵ月間、信長軍への抵抗は続いた。住民の参戦が大きかったのである。
 戦場と化すと、寺社や家屋は放火され略奪や暴行が横行し、生産破壊により飢餓に陥る。流通が盛んで生産性の高い摂津や播磨の住民は信長軍の侵攻によって自国が戦場化することを避けたかったのだ。
 翌年三月村重は毛利を頼って港町尾道へ移った。尾道は来る人を拒まずの治外法権的な街であり文化人を受け入れる風土である。住居は「筒湯山薬師院水之庵」(西郷寺末寺)。村重が茶の湯に用いた井戸は現在蓋がされて残されている。近くには筒湯地蔵尊があり由来板には荒木村重との関係が書かれていた。西郷寺は時宗寺院であり、近くには時宗の常称寺がある。ここは、情報の集まる所であった。
 福岡県に在住の荒木家に伝わる「系譜」の巻物には、尾道に居る村重のもとに信長の長男信忠からの書状が送られていたことが記されている。続いて、《光秀信長卿ヲ弑ス 村重是レヲ聞キ哭踊ス》とある。
 内閣文庫所蔵『寛永諸家系図伝』―荒木村重の項にも同じ記載がある。
 この時代には「忠義」の慨念がなく、武士は自分の信念に基づいて身の振り方を決めていた。当時の武将は『四書五経』を読んでいたといわれている。

茶人としての村重

 村重は若い頃から茶の心得があり、信長が所望するほどの茶道具を持っていたが、献上してない。村重は信長に出会う以前の元亀二年二月五日、村重は弥介として池田紀伊守(三好政勝の甥)・岩成主悦助友道(三好三人衆の一人)と茶会に出席した記録が『津田宗及茶湯日記 自会記』にある。この『茶会記』には、本願寺と結ぶ三好氏の登場が目立つ。阿波三好一族は信長の上洛以前、三好長慶の全盛時代には畿内及びその周辺の八カ国を約二十年間支配していた。村重はその当時池田家で重要な地位にあった。
 天正二年、信長は蘭奢待切取り。村重は奉行を務める。
 天正六年元旦、信長は安土城に於いて朝の茶会を催す。五畿内と周辺諸国の武将十二人出仕。村重も列席している。
 落城後の村重は一族郎党の犠牲は慙愧に堪えなかったのか、出家して「道糞」と名乗っていた。本能寺の変後、村重は尾道を出て大坂城の秀吉の相伴衆として仕えた。
 天正十一年、その年には村重の歓迎茶会が四日四夜催された。
 秀吉は大坂城落成祝いと政権確立の茶会を天正十一年七月七日に催す。参加者は宗易(利休)・宗及・宗久・友閑(松井)・道薫(荒木)・宗二(山上)。『今井宗久茶湯日記抜書』に《七夕御遊アリ、花七度生リ申候》。
 この年には特に村重が列席する多くの茶会が催された。
 天正十三年、村重所持の兵庫の壺を信長の二男信雄に譲っている。
 天正十四年卯月、堺の道薫宅にて松屋久好・草道説二人、二畳半、床に桃尻花入、高麗茶碗。(利休が建てた妙喜庵の待庵は二畳であった)記録に残る村重最後の茶会。
 茶会は、何時・何処で・誰と・何を使ったかを追及することに依って見えてくるものが多い。
 有岡城跡発掘調査(昭和五十一年)で戦国時代最古の石垣遺構や家城の先駆をなす庭園跡の遺構や本丸跡の土中から、天目茶碗・染付茶碗・香炉・水滴・明三彩の置物が出土。
 村重は侘茶を大成した利休七哲の一人といわれ、茶の湯・能・和歌に長けた文化人であった。当時の茶の湯の有様を伝える『茶会記』に村重は多く登場している。
 村重は、兵庫壺・寅申壺・荒木高麗・牧渓画遠浦帰帆絵・ももしり・定家の色紙などの名器を持ち、信長から村重の茶の湯は許されていた。
 大名物、唐草文染付茶碗、銘荒木(徳川美術館蔵)は高麗茶碗としては一種独特。乳白色の釉がかかり、一面に貫入が入り、コバルトで唐草様が描かれ、ひなびた味いがある。高級な器を重んじていた茶の湯の世界に、村重は、中国では生活雑器の不完全な美の新たな価値観を持ち込んだ。はっきりと見えない文様の味わいに「侘び」を見出したのである。 桃山時代の意識革命を伝えている荒木高麗≠ヘ村重の哲学を如実に物語っている。明時代16世紀。
 伝来―荒木村重→利休→徳川家康→徳川義直→尾張徳川家→徳川美術館。

村重の遺志を継いだ子孫たち

(1)村重の子岩佐又兵衛は浮世絵の元祖
 村重の子又兵衛は、信長の村重一族惨殺の中、乳母の手で救出され、京都の本願寺子院に匿われて育った。武士より得意の絵師となる道を選び、岩佐又兵衛勝以と名乗った。又兵衛の初期の画技の師は、父が村重の家臣であった狩野内膳といわれる。内膳は「豊国祭礼図屏風」を描いたが、又兵衛も同じ構図で祭礼を描く。
 しかし、又兵衛は、熱狂的なエネルギーを画面一杯に描き出している。又兵衛作品の大半は独学によるもので、多くの画法を取り入れ、躍動感あふれる又兵衛独自のスタイルを生み出した。流派に属さなかったことは自由な立場で客観的に被写体を焙り出すことができた。
『洛中洛外図屏風 舟木本』は二千六百人を超える人物が描き込まれた六曲一双屏風で、当時の街の様子や人物が描かれていて、歴史的、民俗的意義も大きい。
 人物描法の特徴は「豊頬長顎」、表現は個性に溢れ、物語を読み込み、非常に格調高く、日本の古典・和漢故事人物を描いた。反面、伝統的な画題をユーモア溢れた人物表現もある。又兵衛四十歳の時、北の庄(福井)城主松平忠直(家康の孫)に招かれ、厚い庇護のもと多くの作品を生み、天賦の才能を発揮した。細密技法を駆使した長編の絵巻物が工房で次々に生まれた。又兵衛は絵巻物の中に復讐劇を描き、戦国の悲劇と怨念を、見える形で描き表した。さり気なく置かれた茶道具、異様に妖しく絡まる黒髪が、引き裂かれた両親への追慕と平和への願望の叫びを表している。アニメーションの原形といってよい。
 六十歳の時、又兵衛の画才は将軍家にも聞こえ、歌仙絵や花嫁道具制作に江戸へ呼ばれた。その道中記〈旅日記〉『廻国道之記』を残している。
 また、戦続きの憂世≠平和な浮世≠ヨとの転換を願った絵画を描き浮世絵の元祖≠ニいわれる。多くの絵画が重文に指定されている。その後、浮世絵は多才な絵師たちにより発展した。
 日常の印象的な一場面を瞬間的に捉えるのが浮世絵の特徴で、それはそのままヨーロッパの「印象派」の技法にも通じる。パリ万博をきっかけとして巻き起こった日本芸術熱は絵画だけに留まらず、工芸、建築、演劇、ファションなど多方面にまで及ぶようになり、ジャポニズムを生んだ。又兵衛の絵には時代を先取りする斬新さがある。この芸術性は村重のDNAを受け継いだと思われる。

(2)今に伝わる古武道・荒木流拳法
 荒木流は日本の古武道の中でも拳法≠フ名を冠するきわめて珍しい流派。荒木摂津守村重に始まり(荒木流)荒木夢仁斎源秀縄より伝承された。
 荒木流拳法は、古くは中国の拳法から発達した実戦体験から武術として伝えられた。原始的要素を多分に持ち、武術が剣術、柔術などに体系づけられる以前のもので、棒、鎖、小具足、長巻、刀術、拳法などが未分化のまま受け継がれている総合武術である。
 荒木流拳法は、鍛錬を重ね、礼や節度などを重んじ人格形成にも努め、いわゆる文武両道を本旨としている。日本武道の発展と他国間との国際文化交流に努められている。明治神宮鎮座九十年(平成二十二年)日本古武道大会で第十七代宗家の菊池邦光先生が演じられ、私は上京して見学した。外国の多くの若者が、熱心に見ていたことは印象に残った。村重の従兄弟の荒木元清は馬術に長け、荒木流馬術の祖とされている。

あとがき

 戦国時代は面白い。どの武将もそれぞれの目的を持って突き進んだ真剣勝負だった。それも信念に生命をかけた攻めと守りの凌ぎあいだった。特に村重の生涯を観る時、あらゆる感情、喜怒哀楽がないまぜとなった壮烈な人生であった。そこには卑怯者≠ニか冷酷者%凾フ言葉を寄せ付けない気迫がある。村重の実像は卑怯でも冷酷でもない。
 村重は戦≠ナは敗者であったが、人間の精神性の視点から観ると勝者≠ナあったと私は考える。畳の上で最期を迎えた戦国武将は少ないといわれる中で、村重は畳の上で穏やかに彼岸へと旅だった。村重が武≠ナ生きる道を断ち、茶道で内省を促された尾道での鎮魂生活は人間性の復活であった。本能寺の変後に秀吉の大坂城で、村重はかつて敵対した武将たちや当代第一級の茶人と茶室で、安息の時間を共有した。
 村重は、人生の終焉が見えてきた時、兵庫の壺≠、信長の二男信雄に譲っている。この茶壺は尼崎城へ来ていた毛利軍への援軍依頼の品として伊丹城から持ち出した愛蔵品。村重に歓喜と悲哀を与えた信長に対し、村重は愛惜の念を込めて信長の子息に譲ったのではないだろうか。後年、信雄は、村重の子、若かりし日の又兵衛を手元に置いた。その間の見聞は、又兵衛の描く絵に生かされたようだ。
 茶の湯の奥義を極めた村重を利休は慈しみ、参禅していた南宗寺に、多くの茶人の傍らに葬った(村重愛用の茶碗を利休が引き継ぐ)。村重は利休七哲≠フ一人といわれている。
 日本人は世界の中でも礼儀正しいといわれる。茶の湯の効用だろう。
 村重の反逆は信長の天下布武の目標を遅らせ、信長の怒りを買ったことは当然だが、叛旗を翻す側・翻される側にもそれぞれ言い分がある。信長の独裁的で攻めの強烈な個性と、村重の住民を守る姿勢を表裏一体とすればよかったのではないか。信長の戦略と性格の長所・短所が如実に現れた有岡城の戦いではなかろうか。
村重が生きたから卑怯者≠フ言葉に単に疑問を持ったことから始まった私の追及が、非常に奥深い問題を孕んでいた。敗者は反論出来ないまま勝者の都合の良い理論で終始している。その上、村重の相手が信長であったことは驚異だった。素人が関心を持つにはあまりにも大きな問題であるが、人間の生き方を考えさせられた重要なテーマであった。村重が関係する地に足を運び体感することは時を超えて得ることが大きかった。村重の生涯の興味深さは、人間性豊かな人物が悲劇的状況の中でも健気に生き、応援する人々があったということだ。細川忠興も村重一族の処刑の際、村重の子ども善兵衛を預り育てている。歴史を感情で論じてはいけないと歴史学者はいわれるだろう。しかし、人が一番望むことは、経済などの形のあるものだけでない。安心立命だ。信長は強烈な個性で天下布武に突き進んだ。信長は明国まで攻めるつもりだったそうだ。後年の秀吉の朝鮮出兵に対し抵抗した李舜臣を韓国では現在でも英雄として称えている(韓国の観光バスガイドが説明)。
 村重は「真の武士とは常に修羅道を生きるべき」を実践したのである。戦争の直接体験や死に直面したことのない人には、村重の心中を察することはできないだろう。戦争中は、死を覚悟で戦場へ兵士を送るために死を讃美したのだった。その半面、小学生の私たちには生きることを教えたのである。小学生の避難訓練や学童疎開も盛んに実施された。
 村重は明治時代の修身の教科書に「朋友を庇う」と載る。
 宮本武蔵の人生訓に《生きることとは「自分を生かしてくれる場」を発見することである》とある。また、冨士正晴氏は『歴史展望』の中に《村重などは、信長に敗れたから、価値低くかかれているだけで、実は相当魅力も知能も教養もあった人物ではあるまいか。信長や秀吉にとって師匠であったらしいと感じる》と書いている(『信長公記』天正八年三月三日伊丹城へ御座を移され、荒木摂津守居城の様体御覧じ)。

 再来年の大河ドラマは「黒田官兵衛」。このドラマでは有岡城の場面が登場するだろう。その時、官兵衛を殺さなかった村重として描いてほしい。
 今の日本再生は愛と絆である。この機に村重の人間性を見直してほしいものである。
 安易に殺人事件を起こす現代社会への警告として、村重の人命尊重を強調していただきたいと切にお願いする次第です。
 昨年、徳川美術館で荒木高麗≠ェ展示され、MOA美術館では、開館三十周年記念名品展に絢爛豪華岩佐又兵衛絵巻=w山中常盤物語』(重文)全12巻が展示された。林原美術館では洛中洛外図屏風に描かれた世界%Wで又兵衛描く舟木本(東京国立博物館所蔵)の展示もあった。京の喧騒や会話が聞こえてくるような屏風絵、見たいと念願していたもの。家に着くと、夜八時からBSプレミアムで超時空トラベル 京都に恋!洛中洛外図≠ナ「舟木本」が放映され、又兵衛の真骨頂が表現されていた。しかも東京国立博物館のミュージアムシアターでは、この屏風絵をVRで再現し、ナビゲーターの解説が行われた。
 村重親子に追い風が吹いてきたようだ。

 権威ある『歴史研究』に載せていただけることは大変ありがたいと感謝しております。村重の名誉回復≠ノ少しでもお役に立てましたらうれしい限りです。
 今は亡き、伊丹市瓦田昇先生・荒木村重研究会の皆様、その他御助言・ご支援下さいました多くの方々に感謝申し上げます。
 ご意見やアドバイスが頂けましたら幸いです。
(平成24年12月8日)

◆筆者紹介=たけもと ひろこ
 職業・薬剤師。板野町教育委員会委員歴任・板野町文化財保護審議会会長・板野町読書会会長(野間読書推進奨励賞受賞)・読書会誌『高尾山』発行責任者。家の光読書ボランティア養成講座岡山大会講師。あさんライブミュージアム運営協議会委員・エーアイテレビKK番組審査委員。徳島大学大学開放実践センター同窓会元会長・徳島大学大学同好会「美術館倶楽部」代表・『市民研究者フォーラム紀要第1号』エコミュージアムの地域的展開に関する一考察―あさんライブミュージアム構想を中心として―。新しいフィールドワーク 新美術館散歩「金沢美と華」。全国歴史研究会運営委員。兵庫歴史研究会。徳島歴史研究会副会長。岡山歴史研究会。伊丹の歴史ヒストリア・徳島大学大学開放実践センター大学祭などで「荒木村重・岩佐又兵衛」をパワーポイントで発表。長唄三味線杵家会・鎌倉彫・裏千家・華道各名取。徳島県板野町在住。