今夜は、密かに行う村祭。
若く美しい女が一人、野道を急いでいる。
継ぎはぎの衣を腰紐で結びながら花絞りの小袖を大事に抱え、思う男の許へと急いだ。
空は曇り、妖しげな鼠色に染まっている。
炊煙は天に昇れず、深山の村を覆い、祭り餅を作る芳しい匂いが辺りから漂ってきた。
「また、いやな臭い・・」
四方八方から寄せ来る、餅の匂いではない。
昨夜来、月明りの下で繕う小袖から放つ若い女の焚きしめた伽羅香が癇(かん)に障(さわ)ったのだ。思人から預かった小袖ではあるが、徒(あだ)し女の着た小袖だと、女の勘で何となく分かる。
道の真ん中に、一輪の小さな野菊が踏まれもしないで可憐に咲いている。
「野菊を踏まないのは村の人が皆良い人ばかりだからだ。なのに村(むら)長(おさ)であるあのお方は」
これから届ける先の、思人のやに下がる顔を想うと、丹精こめて縫った小袖を思わず揉みくしゃにして放り投げ、そっと屈んでいた。
「そこなる女、邪魔だてするか、どけえ、上意の御使(みつかい)だあ」
野菊に頬擦りした背後に叫び声がした時、キクは馬蹄に掛けられていた。四囲に映える麗しいキクを、武田四菱を旗指物にする武者は振り返りもせず、水戸の方角へと駆け去った。無傷で漸く起き上がった足許には無惨にも野菊の花が首をもがれて転がっていた。
「かわいそうに、私の身代わりになって・・」
キクはそっと、野菊を胸奥にしまった。
「これはきっと、観音様の御神助御加護だわ」
キクは、北の八溝山山中にある日輪寺の十一面観音像に向かい、思わず合掌していた。
関ヶ原合戦二年後の慶長七年(西暦1602年)八月、佐竹氏が常陸国から秋田に転封する時、家臣の召し放ちをせず、祖先の墓を始め年貢米を根こそぎ持ち去った。年貢御免だった奥州境を守る生瀬(なませ)村からも年貢米を強奪した。
翌月、佐竹氏に入れ替わって入部した徳川家康の五男、武田信吉が生瀬村に年貢米を納めよと命じた。佐竹に取られた後、二重に納める村にとっては死活問題である。更に、
「もはや戦国の世は終わった、刀狩りと検地を行い、太閤様以来の二公一民の年貢とする」
と追い討ちをかけてきた。国境に一旦緩急あらば先鋒となるのが生瀬村衆である。騎馬武者の誇りを奪われ、郷士どころか一芥の田子作になって税を搾り取られるのだ。遂に村人は暴発して権柄面な年貢役人を撲殺した。
冬十月、武田方から報復の総攻めが十二日の祭の夜にあると噂が流れた。生瀬村は収穫祭である子(ね)の日の子祭(ねまつり)を二日早め、戌(いぬ)の日だが甲(きのえ)の十日、即ち今夜密かに行う事にした。
やがてキクは通い慣れた門を潜り、男の名を呼んだ。稲の穫り入れも終わり、作男に暇を出した閑散な庭には枯葉が舞うだけであった。庭奥に進むと、常陸国で最も高い八溝山を借景となす作庭がある。方丈の間の濡縁に座り、悄然と石灯籠を見つめる男がいた。
「ごいちさん」、と再び男の名を呼んだ。
「ああ、キクさん、いつの間に・・」
伍一は憔悴した老け顔で振り向いた。新領主は、藤間伍一から依上保(よりかみほ)(今の大子町)旗頭の地位を奪い、代官を置き、伍一を生瀬の、只の村長(むらおさ)にするとの沙汰を下していた。昨年に妻を亡くした伍一をキクが何かと世話していたのだ。困惑顔で振り向く伍一を見ると、旗頭の地位を失った悔しさではなく、くぐもるような口吻であった。やはり他所の女の事を考えていたのだ、とキクは戦慄した。
「おキク・・ 何しにここへ・・」
その時突然、権六という伍一の副将格の男が、四阿(あずまや)から足を引き摺って現れた。恐れ戦く罪人のような横目でキクを窺った。
「今夜の祭用に縫い替えた着物を届けてくれただけだ、なあキクさん・・」
村祭の今日、私をどうして好きだと公言してくれないのだ、と笑って言う伍一をキクはキッと睨むと、伍一は強いて苦渋顔を作った。
「なんだ、着物を届けに来ただけか・・」
権六は安堵顔で呟いた。しかしキクは、夕べの犯人は権六だと気付いた。キクに何度も夜ばいをかける不審な男への警告に、父が昨夜、キクの寝所入口に鉄菱を撒いた。今日の朝、血の付いた鉄菱が散乱していた。足を引き摺る権六は、間違いなく鉄菱を踏んだのだ。
「キクさん、喜んでくれ。水戸城代家老芦沢殿の使者が参り、日本一精強な生瀬村の騎馬衆は徳川家の御連枝であるわが武田騎馬隊の誇り、年貢役人殺しは不問に付す。このこと近々追って沙汰するが、今まで通り忠勤に励め、と先ほど内書を貰った」
伍一は、肩の重荷を下ろしたように言った。
「お使者とは先程、広い道で私を虫けらのように踏みにじった、四菱の騎馬武者ですか」
キクは、騎馬に蹂躙された事を不安げに語った。伍一の顔も一転して曇った。
「おキク、何かあれば、伍一さんを頭に我等騎馬衆が村を守る。今夜は盛大な祝い祭だ」
権六は卑屈に笑った。私を襲った権六は村の何を守るつもりか。キクは腹立たしかった。
「権六さんは本当に困った方だ。私、嫌い」
権六が帰ると、キクは鳥肌立てて言った。
「権六も(:)キクさんにぞっこんだ。権六には癖もあるが、村の若衆を束ねる有能な男だ。どうだ、わしの許に来ぬか・・」
伍一は石灯籠を見つめながら言った。
「権六を買っている伍一さんは、妾奉公から帰った私を、権六と安囲いをしたいのですか」
権六を褒める伍一を、キクは再び睨んだ。
「わしはキクさんに妻になってくれと言っておる。それとも、依上保の旗頭を罷免された男ではいやか」。温厚な伍一は気色ばんだ。
「私が繕った小袖と臭う香はどなたの物です」
旗頭なら武家女が継室に入る。村女のキクにとって只の村長の方が良い。キクは負けずに問い返していた。「おお恐い、キクさんは幽かな香の匂いも見のがさない。小袖の皺にはキクさんの呪いが込められている」。伍一がさも満足げに笑うと、「恋は女の戦(いく)場(さば)です」、とキクの目はいよいよ険しくなった。
「先月、転封する佐竹公に従う遊女歌舞伎一座の中に行き倒れた遊女の大夫がいた。座頭は葬った礼として女の愛用した小袖を置いていった」。伍一はそっと小袖の香を嗅いだ。
キクは伍一の手つきから、秋田に去った馴染みの遊女から貰ったのだと直感した。だが、キクの悋気を喜ぶ伍一の顔を見たキクの顔から、思わず笑みがこぼれていた。野菊の花を懐から取り出し、正面から伍一の髪にそっと秋萩のように挿した。キクの着る継(つぎ)接(はぎ)衣はこれでも、この辺りでは上等な衣だ。一襲(かさね)の真綿衣の胸奧から、盛んに色香を放った。
「キクさん・・」。伍一は、腫れ物に触るように恐る恐るキクを引き寄せたが、キクは抗わなかった。伍一の懐に何やら硬い物がある。キクが何げなく取り出すと、キクには全く読めぬ唐物語の写本であった。
「おお、すまぬ、これは亡き妻が愛読した書物だ。懐にしまい忘れていた・・」
不信げに見つめるキクに、ばつ悪そうに笑う老いた伍一であった。この男は先程まで、伍一の為に夜なべして着物を繕ったキクの事ではなく、亡き奥方を未練げに思っていたのだ。憎い人だ。新たな怒りがこみ上げてきた。
「未だ奥様がここに居られる。罰が当たるわ」
キクは伍一の腕を邪険に払っていた。慌てて細腰を引き寄せようとする伍一を睨み、
「今夜の村祭のあとで・・」
キクはあでやかな笑顔で手を振り、権六の去った反対の方角に向かって家路に就いた。
五穀豊穣の収穫祭は、好きな男女が公然と逢える年一度の無礼講であり、遠く万葉の昔、筑(つく)波(ば)峰(ね)の歌(か)垣(がい)に始まる。フッカケという冬を告げる依上保名物の小雪が北風に舞っている。水戸方の襲撃が無いと知った伍一はキクの繕った女物の着物を纏い、自ら櫓に登った。右手は亡妻への悲しみ、左手はキクへの求愛のばちさばきである。攻め太鼓は諸方に木霊した。伍一と目があうと、キクは権六の鳥肌立つ卑猥な目にも愛敬顔で応えていた。皆が狂ったように踊る輪の外に一人ぽつんと座るキクだが、踊り手達と完全に一体となった。キクはまさに至福の時である。祭が最高潮に達した時、「敵だ。敵は袋田、高倉、小里の三方の口から押し寄せてくる。火は消すな」
闇の中に敵の気配を察した伍一が叫んだ。他の者に太鼓を打たせ、櫓から飛び降りた。
「キクさんが心配した通り、芦沢に謀られた」
伍一は、要慎の為に持参した甲冑を急ぎ着た。白い息を吐いて汗を流す伍一の肌に、キクが慣れた手つきで甲冑を着せた。「おキク、わしのも付けろ」。権六はキクに叫んだ。キクは顰蹙しながら伍一を見あげると、伍一は微笑して頷いた。忽ち軍団ができあがった。
「敵は我等の武勇を恐れ、四方を囲まず、山に追い上げる欠囲でせめて来る。北の方角の谷中村に逃げるんだ」
伍一は戦うより、女子供の守りを優先した。
村人が去った後に祭火めがけて矢弾が一斉に飛んできた。谷中村に入った伍一は、村長の家の扉を叩いて助太刀を求めた。
「生瀬村の者を例え赤子でも匿った者は同罪にするとさっき触れが回った。年貢御免の生瀬村は騎馬武者を鼻にかけ、われ等を見下していた。天罰だ。うすのろなおめえ達がいなくなれば生瀬村の美田はおら達の物になる」
生瀬が立てば助力すると誓ったのに、不利を悟ると掌を返えすような冷淡さであった。
「裏切ったな、やむを得ん、大神沢に避ける」
あきらめた伍一は、足の遅い女子供でも潜める、左方の奥に広がる沢に導いた。
「瘴気(しようき)だつ大神沢に逃げこんだ者には人殺しでも手を出さぬのが、依上保の掟だ」
伍一が叫ぶと、敵の追撃が一瞬、止まった。
「敵がためらう、今こそ反撃の機会だ。権六、権六はどこだ」。後事を託そうと権六を呼んだ。「足が悪く、遅れて行方知れずだ」。誰かが叫んだ。「権六と二人で磔となって村を守ると言ったが権六の主張で戦を決意した。匹夫の勇の権六を頼ったのが誤りであった。わしもキクさんへの未練を残し、自首して磔になるのをためらう小人であったが・・」
伍一は、愛するキクをひしと抱きしめた。
「若い身空で私だけが生き残るのはいやだ。伍一さんの妻として華々しく死ぬ」
キクは、必死に伍一の胸にすがった。
「いや、生きてわしや皆の菩提を弔ってくれ」
伍一は衣の裾を裂いてキクの口に当て、瘴気の届かぬ木の上に無理矢理おし隠した後、
「騎馬衆、生瀬村を守る為、唐花菱の馬印を掲げる敵将、芦沢伊賀を捕らえる。我に続け」
弓張月が白くなった明け方、伍一は最後の出撃令を出した。武田兵をなぎ倒し、逃げ惑う芦沢を追い詰めた時、芦沢は同士討ちも構わず、遂に伍一を、鉄砲で撃ち殺した。
「他村への見せしめだ。藤間のような男が二度と出ぬよう、一村なで斬りにせい」
明るくなって大神沢に魔物や天狗が居ないと分かると、配下を殺してまでからくも生き延びた芦沢は、非難をかわそうと村人に矛先を向けた。最後の戦とばかりに攻めたてた。
「射つな、ここは聖なる沢だ」。芦沢は、叫んだ村人に自ら矢を放った。そして、泣いて命ごいする女子供は勿論、数百人が情け容赦なく殺戮された。藪の中で赤子の泣き声がすると、泣きやむまで矢玉が撃ち込まれた。
その夜、誰もいないと思ったキクが木からおりると、目の前に人影が立っていた。キクは蛇に睨まれたように立ちすくんだ。「死骸が無いと思ったら、やはり、生きていたのか」
口覆いをとると、やはり、権六であった。
「生き残った者は、どうやら二人だけらしい」
権六は、震えるキクを見て薄ら笑った。
ほとぼりが冷めた頃、キクは、権六に匿われていた穴倉から村に帰った。伍一の家は跡形もなく埋められていた。梟首台が村の中程にある。烏に啄まれて白骨化した伍一の晒し首を見た時、思わず嘔吐(おうと)した。一村亡所跡の我家に帰り、父母の亡骸を焼け跡から探し、裏地蔵の前に葬る時も嘔吐が止まらない。
(へどが出るほど嫌な権六に耐えられず、伍一さんに逢って私の体は悚悸(しようき)だったのだ)
既に吐く物がないのに、嘔吐が続いた。
その夜、雪の降らないしんしんとふける寒天の星の下、灰や燃えがらを寄せ集めて暖をとった。父母や伍一はどの星かと空を見あげて泣くキクに、権六が食い物を運んできた。キクは餓鬼のように喰らいついた。体がなぜか、生きよと命じているのだ。
「キク、わしがいなければお前はとうの昔に死に、この家にもおられんかった。感謝しろ」
権六は笑いながらキクを引き寄せた。キクは、権六を無視してむさぼり食った。
「そう、がっつくな」
権六は興ざめた声でキクを離した後、
「わしは、芦沢に十日夜が祭だと密告した。お頭始め、わしに逆らう何人かを始末して生瀬村の村長になるつもりでいた。しかし芦沢は、平穏な世になると生瀬の武力はむしろ害毒だと言って始めから精強な生瀬軍団を壊滅させようと寄せてきた。芦沢に騙された」
権六が項垂れた途端、又もキクは嘔吐した。
「つわりか」、権六が冷たく笑った。
村中の若者が求婚したキクを、世継ぎが欲しい佐竹の家老に見そめられた。だが、キクは幾年も孕まず他の女が産んだ。ゆえに妊娠など夢にだに思わなかったのだ。主が秋田に減封になる時、僅かの手切品で暇(いとま)ごいし、生瀬の実家に宿さがったのだ。
「寡(やも)男(お)の伍一に秋波など送らず、秋田に行った方が良かったと後悔しているんだろう」
権六は、キクに冷たい視線を浴びせた。
「ああ、こんな時に、こんな人の子を・・」
キクは嫌悪し、孕んだ腹を掻きむしった。
数日後、依上保の代官所から見回役が来た。
「首台の下に佇む者が居ると訴えがあって来たが、男ではないのか。こじきのばばあか」
役人は目をそむけるようにして帰って行った。伍一の下で首を突こうか迷っていたキクは不思議そうに役人を見送った。家に帰り、水くみ場跡で己の顔を水鏡に写した。
「ああ・・ この醜い姿の生き物は、たれ」
いつの間にか緑の黒髪は真っ白に変わり、目はくぼみ、頬はこけ、別人の醜女に変わっていた。寝ている時や畑の中で、隣りの谷中村の悪餓鬼達にテカケ、ヤマンバと叫んで石を投げつけられ、顔や体中にできた深い無惨な傷が岩のように盛り上がって痛々しい。
翌日、キクは醜い体を人目に晒さず海まで運んで呉れる、と袋田滝の頂きから身を投げていた。だが、着ていた小袖が松枝に引っかかり、奇跡的に胎児と共に助かった。
ある夜、伍一の首を奪った。一晩中泣いて抱きしめ、大粒の涙を骸に落とした。そして密かに葬った時、石灯籠の下に小判があると伍一の声を聞いた。だが、身重では厚い埋め土は掘れない。頼れるのは権六しかいない。二人は代官所に見つかれば打ち首になるのを覚悟で深夜密かに掘った。失う物が何も無く、修羅場を潜った二人に怖さはない。幸い、死者の霊が未だ漂う夜の生瀬村には気味悪がって誰も近づかない。「あった、壺があった」
物覚えの良いキクが検討をつけた場所に壺を見つけた。壺を開けると、目がくらむほどの山吹色に光を放つ小判が入っていた。
「これだけの金があれば安心して子供を産める。一生安泰に暮らせる。これで仕合わせになれという伍一さんのお告げだわ」
キクは震える声で言った。
「わしの前で、伍一、伍一と言うな」
権六は目を剥いてキクを殴り飛ばした。
「祭の晩に伍一とおまえが懇ろになる前に寝取ろうと、わしは前晩に夜ばった。しかしお前はわしに鉄菱を踏ませた。わしはその直後に村を裏切った。これは全部わしの物だ」
権六は、キクを復讐する憎悪の目で睨んだ。キクは、権六の背後で鍬の柄を握った。
「わしを殺せ、わしを埋めても、そこら中にある塚と区別がつかぬぜ。さあ殺してみろ」
村を裏切った権六は、罪の苦しみから自暴自棄になっていた。キクは、やや子の父だと辛うじて思い直した。小判を抱いた権六が消え去った後、わななく体を地に伏せた。キクの涙は既に涸れていた。翌日のキクは、嫌なことは忘れるのだと心に強いると、本当に忘れる事ができるようになっていた。
権六が殺されたと知ったのは、四半年以上も過ぎてからだった。太田城下の色屋からの帰り、誰もいない山中で襲われ、死体は切り刻まれたとの事であった。賊は生瀬の生き残りとも伝えられている。「祟りだ・・」
キクの境遇は余りにも悲惨すぎ、権六がこうなった責めは己にもあると省みる余裕はない。伍一を思う事で漸く心の平安を得ていた。
キクは雨露を凌ぐだけの荒屋で、満月の晩に月足らずで産気づいた。側には誰もいない。まして生瀬の地には谷中村始め周辺村の次三男が入植し、キクに退去を迫っていた。
「生瀬村は先祖代々、私等の物だ。私を殺せば必ず怨霊となって水戸のお殿様に祟る」
頑として立ち退きを拒んでいるキクだが、陣痛でお腹が痛む度に心細い。
「野菊の花が咲いている、私は狂っていない」
横臥する焼け跡には、野菊の花どころか、もはや食えるような一本の草木も残っていないが、キクの目には野菊の花が映っていた。
やがて夜が更け、漸く男児を産み落とした。
「よかった、伍一さんに生き写しだ」
そう言って乳房を含ませるキクに乳汁は出ない。空腹を訴えるどころか、泣く力もない未熟児に、側の土を噛んで口に含ませた。
「野菊は美味しいかい・・」
そう言ってさらに、銅墨がないので、神隠しに遭わぬようと赤子の額に灰土を塗った。後産が無く、高熱を発し、赤子が既に冷たくなっているのさえ全く気付かぬキクであった。命の炎がまさに消えようとしていた。
突然、荘厳な物凄い静寂が訪れた。
「この家は私のものだ。生瀬村を離れるのはいやだ。子供も絶対に離さない」
今際(いまわ)の際(きわ)、正気に返ったキクはもがいた。
「おいおい、子供は死産で、既に彼岸で待っている。汝はいずれ、この生瀬の地に裕福な名主の子として生まれ変わる」
山の怪の狗賓(ぐひん)天狗がからかっているのではない。奏楽天人を従え、高笑いする伍一が天から降りて来たのだ。さしのべる伍一の手に誘われるように触れると、灌頂幟を垂らして金泥の衣笠を天蓋とする飛車に乗り移っていた。キクは一瞬にして昔の艶やかな顔だちに戻り、唐衣(からぎぬ)裳裾(もすそ)の美しい姿に変じていた。
「ああ、夢にも見た事がない衣装を着ている。やはり観音様が願いを叶えて下さったのだ」
己の麗しい全身を恍惚と見た後、天馬を操る御者を見ると、涙を浮かべる権六であった。美しい緑黒髪を領布(ひれ)のように棚引かせるキクを乗せた天車は光輪を発し、紫雲と共に西方へと天翔けた。「野菊が辺り一面に光彩を放って見送って居る」。伍一が言うと、微笑仏となったキクが静かに振り返ったのであった。
水戸城主の武田信吉は病があらたまり、弱冠二十歳で死出の山に旅立ったのは、キクの死後、間もなくであったという。
その後、水戸武田家は改易となった。
了
参考文献 小澤圀彦著「大子町の歴史散歩」
飯嶋和一著「神無月十番目の夜