常陸国の北境に依上保(今の大子町)という郷がある。郷のほぼ中央盆地を占める生瀬村の片隅に正月元旦、蓑笠つけ、草鞋ばきで下炉を囲む、きわめて珍妙な一家があった。
「腹へったあ。速く餅くいてえ。蓑笠が重てえよー」
重病の藁布団から老婆がはいだし、蓑笠つけるいわれを語ろうとする時、幼い曾孫達が騒いだ。耳にタコができるほど聞きあきているのだ。嫁は子供等をきつくしかりながらも、
「ばあちゃん、静かに寝てないと今度こそ死ぬがに:」
「これだけは歳神様のまします元旦にこそ言わねとなんねえ」
菊はかたくなに言い、嫁にかかえられて土間へおりたのだ。
惨禍があったのは、常陸国旗頭の佐竹義宣が西軍に与して敗れた関ヶ原合戦の二年後、一六〇二年初冬十日、餅をついて五穀豊穣を願い、刈上を謝う村祭の日の事であった。
「菊、餅はとうにつき終ったのに祭壇の飾付はまだか。いつまで水鏡とにらめっこしておるのだ。日が暮れるぞ」
「はーい、ただいま」
父にしかられて首をすくめながらも、村娘は重い腰をあげなかった。その訳は、十三年前、会津摺上原で兜首を両腰にさげた藤間伍一は殿として獰猛な伊達軍の追撃を見事に退けた。十六で敵将伊達正宗から返感状を贈られた武名は太田城下に轟いた。士分の肝煎に出世した伍一だが、菊が一六になる今宵の祭の夜まで独身を守り通してくれたからだ。
その夜の火祭は遠く万葉の昔、筑波峰の歌垣に始まる。フッカケという小雪まう中、櫓に登った伍一は白い息をはきながら鮮やかな撥さばきを見せた。皆が踊り疲れる深夜、菊は男と初めて二人っきりになる。伍一と目があうと、菊は首のつけねまであかね色にそめてうつむいた。祭が山場に達した時、暗がりから祭火めがけて矢が一斉にとんできた。
「敵襲だ、袋田、高倉、小里の三方の口からおしよせてくる。やや、村の家々に火の手があがったぞ。みんな、にげるんだ」
櫓からとびおりた伍一は菊の手を鷲づかみにして引いた。
「家には父母がいる、帰らねば:」
「山側をあける欠囲でせめ上る時はにげ遅れた者を皆殺しにする策だ。もう殺されている。敵影のない岡内村ににげよう」
敵方の村々を焼働した伍一の嗅覚は鋭い。身をふせながら槍をくりだし、群がる敵をなぎ倒して囲みを破った。
八月、秋田転封になる佐竹義宣から初めて年貢米をとられた。むしろ代々慕った佐竹公の為に稲を早刈し、四公分を籾で餞別として贈った。直後、知らずに入部した武田信吉も四公の納米を迫った。残る二民では来年の種籾さえ不足する。武田は半農半士の村民を郷侍として遇する所か小百姓として蔑み、初めが肝腎とばかり抗う村民を鞭うった。年貢御免の美田を耕す誇り高い生瀬村の若者はよって集って権柄面な小役人を撲殺してしまった。その報復に大軍でおしよせたのだ。だが、岡内村では生瀬村人を匿う者は誰もいない。
「薄情な奴らだ、それなら地獄沢ににげよ。瘴気だつ地獄沢ににげこんだ者には人殺しでも手をださぬのが依上の掟だ」
だが、地理民情に不案内な新参の武田兵は弓張り月の明りを背に負い、にげる村民をおって地獄沢になだれこんだ。
「沢では口覆をあてて息をすうのだ。来世も伍一の妻だ、死ぬな、生きていきぬき、いき証人となって後の世まで語れ」
菊を木の上に隠した伍一は敵中に斬りこみ、鉄砲であっけなく射殺された。せめこんだ敵も瘴気に祟られて倒れる者が続出した。一夜あけると、命ごいする女子供まで数百が惨殺された。その夜、誰もいないと思った菊は木からおりた。
「お菊か: 風むきを考え、瘴気の届かぬ木上とは考えたな」
口覆をとると、撫切された死体の懐を漁る岡内村の格助だ。
「伍一の見そめた女だけあって別嬪になった。生瀬めの者を殺したとて誰もとがめねえ、死にたくないなら、いがっぺ:」
菊は、昔から蛇蝎のように忌避る男に鳥肌たち、身震した。
格助は、菊を村長や女房に隠して匿った。ほとぼりがさめた頃、一村亡所跡に呆然と佇んだ菊は格助の子を妊ったことを知った。伍一の後を追って袋田滝に身をなげたが松枝に落ち、胎児共に一命をとりとめた。格助が変死した後、菊は伍一の子だと心にしいて猫の額の田畑で糊口をしのいだ。
菊は腰がまがり、歯や白髪もぬけ、翳目で歩くのさえ不自由な老いたある日、まどろむ菊の前に亡き伍一の若侍姿がたった。その直後に曾孫がうまれた。死んだ伍一にいき写しの男児は目を輝かせ、とりあげた菊にニッと笑った。菊の体はけいれんし、児の重さに、どすんと大きく尻餅をついていた。
「死ぬほど辛い時は蓑笠つけ、首を竦めて亀になり、心で笑え。だが、こわい鬼侍がきたらにげられる形だ、わかったか」
「わかった、こわい山んばが泣いた、ワー」
腹のふくれた子供達は凧をもち、北風にむかってくもの子を散らすようににげた。微笑して見送る菊の側に伍一と名づけた幼子だけは藁をだいて蹲り、じっと菊を見あげていた。
「燃えやすい藁もって炉火に近づくな、童は風の子だ」
菊は愛しい児ゆえに寒空へとおいやったが、昔よりはるかに厳冬のこの頃、突然藁壁にもたれた。菊がかすかに唇を震わすと、伍一が憑かれたように奔りもどり、菊の懐にとびこんだ。菊は伍一を抱き、眠るような安らかさで息たえた。
参考文献、小澤圀彦著「大子の歴史散歩 第6」
ある家の正月行事
http://www.satomi-mura.net/mukasi/mukasi04_08.htm