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邪馬台国吉備説の提唱

若井正一(全国歴史研究会本部会員)



第一節 邪馬台国九州説の問題点

邪馬台国所在地論争の主導権が考古学者の手中に移って久しい今日、邪馬台国九州説の界隈にはかつての賑わいは感じられない。それでも、根強く支持し続けている考古学者がいるのも事実だ。その有力な拠り所が鉄製品である。武器、農具、工具などの鉄製の出土品が、他地域に比して北部九州地域で圧倒的に多いのだ。鉄の北部九州優位は卑弥呼の時代である三世紀前半に至っても保たれるという。鉄製武器は軍事力に直結する。実際、激しい戦闘の痕跡を残す人骨が北部九州から数多く発掘されており、鉄製武器の豊富さが諸国間の戦争を招いていたことを窺わせる。そこで九州説は、他地域に対して軍事的に優位にあることを自説の根拠に挙げる。しかしその発想はどうだろうか。後述するように、倭国は「倭国乱」の動乱を経て、卑弥呼のもとに再結集される。問題はその経緯である。それは決して圧倒的な軍事大国の出現によってではなくて、対立する諸国による政治的妥協の結果だった。ならば、新生倭国の首都・邪馬台国の場所として果たして北部九州が適当だったろうか。最も苛烈な戦闘が繰り広げられたであろうその地域は、むしろ忌避された可能性があるはずだ。軍事的先進地域であったことは必ずしも倭国の首都であったことに繋がらないと考える。
考古学者は、北部九州の諸地域が中国王朝の影響のもとに他地域に先行して国を形成した政治的先進地帯であったと言う。そこで九州説はこう主張する。そういう国々がまとまることで国家が誕生したのだから、その首都・邪馬台国は北部九州にあったはずだ、と。しかし、これまた首肯できない。卑弥呼の倭国の範囲が北部九州に限定されるならば、確かにそうであろう。あるいはまた、統合が北部九州に始まり、それを中核として段階的に他地域へと拡大して卑弥呼の倭国へと行き着いたならば、九州説の言う通りかもしれない。しかし、そうであったとは限らない。倭国は、段階的にではなくて、西日本の広範囲が一気に統合されることで誕生した可能性だってある。そして、後述するように、それが私の考えだ。地域レベルでの国の形成と広域的な国家の形成とは次元が異なるのだ。だから、卑弥呼の倭国の政治的中心が北部九州にあったとは限らない。
考古学者によれば、北部九州の首長墓に副葬された舶来品(鏡など)の豪華さは、弥生時代を通して他地域のそれを全く寄せ付けないという。そこで九州説はこう主張する。中国王朝との結びつきが強かった北部九州の国こそが邪馬台国に相応しい、と。しかし、ここにこそ考古学だけに頼ることの危うさがある。北部九州の諸国の中で突出した豪華さを誇るのが伊都国(福岡県の糸島地方)である。では邪馬台国は伊都国かというと決してそうではない。『魏志』倭人伝には、邪馬台国とは別に伊都国は登場し、しかも伊都国は「代々王がいたが、皆、女王国(邪馬台国)に服属する」という。要するに、首長墓の副葬品を以て邪馬台国を推定することはできないのだ。
それでは『魏志』倭人伝の文献的解釈ではどうかというと、邪馬台国は北部九州から離れて位置するように読みとれる。第一に、邪馬台国は「一大率」という役所を伊都国に設置して諸国を監視したこと。もし邪馬台国が北部九州にあるならば、他国に出先機関を置くことなどせずに、自ら監視するはずだ。第二に、「卑奴母離」という官職が、順に、対馬国(対馬)、一支国(壱岐)、奴国(福岡市・春日市)、不弥国(所在地不明)にはあるが、それ後の投馬国(所在地不明)、邪馬台国にはないこと。卑奴母離とは夷守(鄙を守る)で、倭国の辺境を防備する軍職を指すとする説がある。これに従えば、倭国の都・邪馬台国にとって、対馬、壱岐はおろか北部九州でさえも辺境の地ということになる。第三に、不弥国までの道程は距離(里数)で表すのに対して、その後の投馬国、邪馬台国への道程は日数で表すこと。不弥国までの道程の単純な延長線上に投馬国、邪馬台国はないことを示唆する。以上三点を併せると、不弥国までの諸国は近接して北部九州の中にあるが、投馬国、邪馬台国はそこから離れて位置すると捉えたい。


第二節『魏志』倭人伝と矛盾する邪馬台国「新都」説
『魏志』倭人伝には、「その国は、もともと男子をもって王となし、とどまること七、八十年。倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。名を卑弥呼という」とある。卑弥呼が王に就いたのは、おおよそ二世紀末と推定されるから、倭国は二世紀前半には成立していたことになる。更に『後漢書』倭伝には、「安帝の永初元年、倭国王帥升らが、生口百六十人を献じ、請見を願う」(安帝の永初元年とは西暦一〇七年)とある。二世紀初頭に既に倭国の王を名乗る人物がいたというのだ。これら一連の文献から、東洋史学者の西嶋定生は「『倭国』が出現するのは二世紀の初頭」と結論する。私はこの見解を支持する。
西嶋説では、二世紀初頭に生まれた倭国は伊都国を中心とし、それが二世紀後半の「倭国乱」により邪馬台国の覇権による倭国へと変貌したとされる。これを受けて、よりはっきりと成立期の倭国を北部九州に限定し、その上で邪馬台国大和説を唱えるのが考古学者の寺沢薫である。二世紀初頭に誕生した「イト国を盟主とした北部九州の部族的国家連合」に過ぎない倭国から、「倭国乱」を経て卑弥呼が共立され、大和を都とする本格的な倭国へと進化したと寺沢は説く。私は、西嶋や寺沢らのイト倭国論および邪馬台国「新都」説を支持できない。
なぜなら、これは明らかに中国文献と齟齬を来すからだ。というのも、『魏志』倭人伝は伊都国について「代々王がいたが、皆、女王国に服属する」とし、更に、「女王国から北には、特に一大率をおき、諸国を検察する。諸国はこれを畏れ憚かっている。一大率は常に伊都国に役所を持って治めている」とも記す。従って、伊都国王は代々、邪馬台国に服属していたのであり、二世紀に倭国の盟主であったはずはないのだ。イト倭国などあり得ない。
のみならず、二世紀後半の「倭国乱」により倭国の政治的中心が移動したという彼らの主張も『魏志』倭人伝とは合致しない。第一に、先述の「代々王がいたが、皆、女王国に服属する」という記述。これは伊都国についてのものだが、女王国(すなわち邪馬台国)が何世代にもわたって倭国の覇権を維持していたことを示唆する。第二に、「その国は、もともと男子をもって王となし、とどまること七、八十年。倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした」という記述。これは、「倭国乱」の終結が圧倒的な勢力の台頭によってではなくて、対立する諸国間の政治的妥協の産物だったことを意味する。であるならば、再生した倭国は「倭国乱」前の体制を概ね踏襲した可能性が高い。従ってその首都も元の場所に置かれたはずだ。以上より、首都・邪馬台国は、二世紀初頭の倭国誕生から「倭国乱」を経て三世紀の卑弥呼の時代に至るまで不動であったと推定する。後述するように、私は邪馬台国本州説をとる。とすると必然的に次のような考えに行き着く。初期倭国はイト倭国でないのは勿論のこと、「北部九州の部族的国家連合」でもない。倭国は初めから本州にある邪馬台国を中心とする西日本の広域的国家であった、と。


第三節 邪馬台国大和説への批判と狗奴国大和説の提起
邪馬台国「新都」説が考古学者からどの程度広く支持されているかはともかくとして、こと所在地については「邪馬台国は大和で決まり」というムードが支配的であるのは周知の通りである。邪馬台国大和説は、画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡の出土分布や奈良県天理市東大寺山古墳出土の「中平」年銘鉄刀をその拠り所として挙げる。しかし、紙数の都合上、ここではこれらに対する批判は省略して以下の論点に絞ることとする。
考古学者はこう主張する。「奈良盆地の前方後円墳の濫觴といえば、かつては四世紀初頭というのが常識だった。しかし、学問の進歩に伴い、定型化した大型のものは三世紀後半、その祖型は三世紀前半に遡ることが確実となった。三世紀前半といえば、そう、卑弥呼の時代。卑弥呼といえば倭国の女王。となれば、古墳の始まりと倭国王・卑弥呼とが時代的にぴったり符合するではないか。そういえば、『魏志』倭人伝にも卑弥呼の死後に大きな冢が築かれたとあるではないか。だから、倭国王・卑弥呼の王権こそが古墳時代の扉を開いたのであり、つまり、邪馬台国は初期大和王権に他ならない」と。
考古学が卑弥呼と同時代の大和に強大な王権を見出したことはよい。しかしそれを以て、それこそが邪馬台国であると結論付けるのは余りに短絡的だ。なぜなら、この時代、邪馬台国以外にも強国はあったからだ。
ここで『魏志』倭人伝に立ち返って欲しい。卑弥呼は多くの国々を従えていた。ところが、卑弥呼に、つまり邪馬台国の体制に従わない国が少なくとも一つあった。それが狗奴国だ。それは単に従属しなかっただけではない。倭国の覇権を巡って邪馬台国と戦争していた。三世紀前半における日本列島では、二つの勢力が雌雄を決すべく対峙していたのだ。中国王朝の魏は、そのうちの一方、邪馬台国に肩入れしていた。だから、『魏志』倭人伝にあるのは専ら邪馬台国の話ばかりである。そのため我々はうっかりすると邪馬台国が倭全体を統治していたと思い込みがちだ。しかしそこに陥穽があるのだ。
『魏志』倭人伝は邪馬台国と狗奴国との戦争を詳しく語っている。にもかかわらず、その帰趨については全く沈黙している。ところで、三世紀後半以降、全国統一を成し遂げたのは大和王権である。そこで問題は、三世紀前半に対峙していた両雄、邪馬台国と狗奴国と、大和王権との関係である。もし邪馬台国が狗奴国に勝利したならばどうだろう。それならば確かに考古学者の説く如く、邪馬台国は大和朝廷へと発展した、すなわち邪馬台国大和説が正しいと言えよう。では逆に、狗奴国が邪馬台国を滅ぼしたとすればどうだろう? それは、狗奴国が大和朝廷へと成長したことになる。真相はどちらなのか? それは中国文献では決して解き得ない。そこで『古事記』・『日本書紀』の出番となる。これ抜きには日本の古代史は成り立ち得ないはずだ。ところが、邪馬台国大和説は、次に示す如く、これと重大な齟齬をきたしている。
第一に、女性天皇である。その嚆矢は推古天皇であり、六世紀から七世紀にかけてである。だから三世紀の段階では大和王権に女帝はまだ現れていない。ところが、三世紀の倭国王・卑弥呼は女性である。しかも、その死後に男王が立ったが紛争が起きたので再び女性が王(卑弥呼の宗女・壹与)となったとのこと。二人の女性がほぼ立て続けに倭国王になっている。つまり、こと女帝に関して、『古事記』・『日本書紀』と『魏志』倭人伝とは全く噛み合わない。だとすれば、『魏志』倭人伝の邪馬台国と大和王権とは全く別と考えなければならない。一方、狗奴国は邪馬台国と違って男子を以て王としているため、大和王権である必要条件を満たしている。
第二に、大和王権とその西方地域との関係である。第十代崇神天皇の御代は、箸墓古墳の推定築造時期からして、三世紀後半〜四世紀初めである。これはまさに今問題にしている時期である。『古事記』・『日本書紀』によれば、天皇は各地に「四道将軍」を派遣して全国を平定したという。そのためこの天皇は「初国しらしし天皇」、すなわち「初めて国を統治した天皇」という称号が与えられたという。これはこの時期が大和王権にとって大きな画期となったことを示している。この時期に初めて全国的な覇権を決定づけたということだ。この史実は、『魏志』倭人伝と絡ませると意味深長である。というのも、対立する二つの勢力、邪馬台国と狗奴国との戦いがようやく雌雄を決したと考え得るからだ。では一体どちらが勝者となったのか?そこで注目すべきは次のことである。『古事記』・『日本書紀』によれば、まさにこの崇神天皇の御代に、吉備、出雲が大和に服属している。逆に言えば、三世紀後半より前は、これら地域は大和王権の勢力圏外にあったのだ。ところが、邪馬台国大和説に立てば、吉備は三世紀前半の段階で既に大和王権=邪馬台国の支配下にあらねばならないはずだ。なぜなら、『魏志』倭人伝によれば、吉備より西方に位置する北部九州が邪馬台国の統治下にあるからだ。実際、大和説では吉備は投馬国(倭国の一国)に比定されている。これは『古事記』・『日本書紀』と大きく矛盾している。
一方、狗奴国が邪馬台国を破ったとすれば矛盾は生じない。狗奴国こそが大和王権であるとすれば『古事記』・『日本書紀』の記述と実によく噛み合う。邪馬台国と戦争状態にあった狗奴国=大和王権は、三世紀後半〜四世紀初めに、西方に位置する宿敵・邪馬台国を打ち破って、吉備・出雲を含む西国全体に支配権を及ぼすに至ったと考えれば……。
以上より、次のように推定する。邪馬台国は全国統一を果たすことなく滅亡し、勝利した狗奴国が我が国の覇権を確立した。それが大和朝廷である。その時期は三世紀後半〜四世紀初めである、と。


第四節 「やまと」の由来
それでは邪馬台国はどこにあったのか? この問題を解く鍵の一つは邪馬台国をどう読むかにある。通例では、それを「やまたいこく」と読む。しかし、従来より、「邪馬台」とは「やまと」であるという説がある。私はこの説を支持する。ただ問題はその先にある。というのは、「邪馬台」を「やまと」と読むことは、邪馬台国大和説にとって決定的に有利な材料に映るからだ。実際、「邪馬台国=やまと国=大和王権」という等式が大和説を支える大きな柱の一つになっている。しかし、私はこれに異を唱えたい。
確かに、邪馬台国=やまと国である。ただ、それがイコール大和王権と言えるだろうか。そもそも「やまと」という言葉には二重の意味がある。一つは、(A)我が国全体を表す国家としての「やまと」(倭国に相当)。もう一つは、(B)現在の奈良県の古い国名・地名としての「やまと」(古代の大和国に相当)。それでは、何が「やまと」の語源なのかというと、本居宣長以来の通説では(B)とされる。邪馬台国大和説はこの通説を前提としている。果たしてそれは正しいのだろうか?
紙数の都合上、詳細は拙著に譲ってここでは簡略に記す。『古事記』の国生み神話を見ると、本州が「大倭豊秋津嶋」と呼ばれているのを知る。ここで注目したいのはこの島名中にある「やまと」である。同様に、『萬葉集』でも、本州は「やまと島」と呼ばれる。一例を挙げてみよう。
「天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ」(柿本人麻呂)(『萬葉集』巻第三 二五五番)(口語訳 遠い鄙からの道のりを恋しく思いながら来てみると、明石の海峡からヤマト島が見えてきた)
こうしたことから、古の人々は本州を「やまと島」と呼んでいたことが分かる。そして私は、「やまと」の由来はここにあると考える。「やまと」とは元来、本州の謂いである。『古事記』にしろ『萬葉集』にしろ、その成立は八世紀以降のことだが、そこには遙か以前からのヤマトコトバが脈々と息づいていると見るからだ。さてそれでは、その「やまと」がいかにして国号となり、はたまた一地名と化したのか?


第五節 邪馬台国と大和国
二世紀初頭の国家形成は西日本を主たる舞台とする広域的なものだった。その統合の核となったのが、当時「やまと島」と呼ばれていた地域、つまり、本州なのだと考える。そして、本州の中で中心となる地を「やまとの国」と呼ぶことが、皆の共通認識となった。
『魏志』倭人伝のいう邪馬台国はその一つだ(後で説明するように、唯一ではない)。とともに、国家の名もまた「やまとの国」として定着していった。それが倭国だ。
さて、このように考えると、従来とは全く異なる発想で邪馬台国を理解することになる。それは、元々は特定の地名ではなくて、本州の中心の謂いであったということだ。言い換えれば、倭国の中心=首都(倭国王の所在地)ということだ。『魏志』倭人伝で邪馬台国は「女王が都するところ」とある。これを、邪馬台国という名の地にたまたま都が置かれたと捉えるのではなくて、邪馬台国イコール首都と解釈するのだ。
そうするとどういうことになるのか? ここで問題になるのが、邪馬台国と敵対する狗奴国である。というのも、それが、敵対する相手国を倭国の中心(倭国の首都)と認知していたはずはないからだ。狗奴国にとっては、『魏志』倭人伝が邪馬台国と呼ぶその国は決して「やまとの国」ではなかったはずだ。では、狗奴国にとって倭国の中心とはどこなのか。それは自らに他なるまい。
つまりこういうことだ。「女王が都する」邪馬台国があった。ところが、それとは別の「やまとの国」があった。男王が都する、本邦文献の大和国のことだ。これが『魏志』倭人伝の狗奴国に他ならない。邪馬台国の側に立つ『魏志』倭人伝が狗奴国とよぶその国は、自らを称するに「やまとの国」としていたのだ。邪馬台国と同様に、それもまた己こそが我が国の中心であると信じていたからだ。三世紀後半〜四世紀初めの頃、男王(崇神天皇)の大和国が女王(卑弥呼の後継者である壹与)の邪馬台国を倒し、倭国の統一を果たした。そして、その覇権が揺るぎないものになるにつれて、「やまとの国」は次第にその原義である首都という意味から離れて、現在の奈良県の国名(大和国)として定着していった。終には、それは首都とは無関係に奈良県の地方名と化して現在に至っている。私はこう考える。
結局、我が国の古都の名が大和国であったのは、全国を統一した王権の本拠地の名がたまたま「やまと」であったからではない。もし別の王権がそれを果たしたとしたら、都の名は別であったわけではない。天下を統べることができたのは自らを「やまとの国」と信じる王権に限られていたからに他ならない。都=「やまとの国」は偶然ではなくて必然だったのだ。


第六節 邪馬台国吉備説の提唱
以上の考察を踏まえて、邪馬台国の所在地が満たすべき条件として次の四つを挙げる。
・第一の条件 本州にある(なぜなら「やまと」とは本州のこと  だから)。
・第二の条件 奈良県(大和)より西方にある。
・第三の条件 二世紀から三世紀前半にかけて、大規模な集  落があり、王墓が造営されたことが考古学的に確認できる。
・第四の条件 大和王権による覇権が決定的になる画期に、  それと敵対したという記録・伝承がある。
右のうち、第二の条件については若干の説明が必要だろう。これは『魏志』倭人伝の次の二つの記載内容(A、B)に基づく。A「邪馬台国は北部九州の諸国を統治していた」。とすると、大和(狗奴国)が東西から挟み撃ちされていない限り、必然的に邪馬台国は大和の西側にあることになる。B「北部九州の南に邪馬台国があり、そのまた南に狗奴国がある」。「南」という方角はここでは無視して、北部九州、邪馬台国、大和国(狗奴国)という位置関係に注目しよう。そうすると、邪馬台国は大和の西になる。
さて、ここで俄然クローズアップされるのは吉備である。第一、第二の条件を満たすこの地域は、第三の条件に関しても、他のどの地域よりも優位にある。先ず、弥生時代後期に集落遺跡が激増することだ。このことより、当時この地域に多数の人々が住んでいたことが分かる。次に、中国・新の王莽が鋳造した銅銭である貨泉を挙げたい。我が国では北部九州・近畿の弥生遺跡を中心に出土しているが、吉備の高塚遺跡からは弥生時代後期初め(一世紀前半)の土器とともに大量二十五枚が出土している。この当時の吉備の実力を窺わせるものだ。こうしたことを背景にして、弥生時代後期後半(二世紀後半から末)に、全国的にみて最大規模の弥生墳丘墓が出現する。岡山県倉敷市の楯築墳丘墓である。これは、副葬品を別にすれば王墓として北部九州のものを遙かに凌ぐものだ。この時代で最も強力な王権が北部九州や大和ではなくて吉備に存在したことの考古学的証である。これは「倭国乱」直前の倭国王の王墓候補と言える。吉備では、楯築以後も数多くの弥生墳丘墓が継続的に営まれる。それらに共通するのは特殊器台・特殊壺と呼ばれる独特な土器である。吉備の王権が独自の葬礼を持っていたことを物語っている。楯築以後で特に注目されるのが鯉喰神社墳丘墓であり、楯築に続く吉備の大首長の王墓と見なされている。卑弥呼の王墓の候補となり得るものが確かに存在するのだ。古墳時代に入ると(三世紀後半から末)、吉備では特殊器台・特殊壺が稀少になり、それにかわって遠く大和の地で、箸墓古墳を嚆矢とする定型化前方後円墳に並べられるに至る。この事実は、吉備の葬礼が大和の古墳文化へと移植されたことを意味する。三世紀後半から四世紀初めの時期に吉備の王権が滅亡し、その結果として、吉備が定着させた倭国王権の葬礼が、唯一の倭国王権となった大和によって継承されたと解釈したい。
最後に第四の条件について述べる。『古事記』には、第七代孝霊天皇の系譜記事の中で、
「大吉備津日子命と若建吉備津日子命との二人は、連れだって、播磨の氷河の岬に神事の瓶を据えて神を祀り、播磨を道の入り口として、吉備国を平定した」
とある。これに対応する記事として、『日本書紀』には、大吉備津日子命(以下、ミコトと記す)が崇神天皇の時代に「四道将軍」の一人として「西道」に派遣され、その地を平定したとある。
両書の記載を併せれば、崇神天皇の御代にミコトらによって吉備が武力制圧されたことが分かる。換言すれば、この時まで吉備は大和による支配に抵抗していたことになる。これはまさしく第四の条件に他ならない。
そもそも、大吉備津日子命という名そのものが、西国平定という使命を果たす上で吉備制圧が決め手であったことを示唆している。『古事記』・『日本書紀』によれば、ミコトの元々の名は比古伊佐勢理毘古命。「四道将軍」の一人として「西道」平定の功績が報いられて先の名を得たわけだが、その名に吉備を冠していることは、吉備が西国の中心であったことを窺わせる。
結びにあたって、今の岡山県吉備地方に伝わる或る伝承を紹介しよう。『吉備津宮縁起』と呼ばれるそれはミコトによる鬼退治の話である。鬼の名は温羅。またの名は吉備冠者。ミコトは大激戦の末にこの鬼を破り、吉備冠者の名を得たという。一方、敗北した鬼は首を切り落とされた。ところがそれで一件落着とはいかなかった。その首がいつまでも大声を発し続け、人々を悩ませたからだ。ある夜、ミコトの夢に鬼が現れ、或る行いの実行を告げた。それこそが、吉備津神社(名神大社)に今に至るまで連綿と続く「鳴釜神事」である。これは、御釜殿で神官と巫女とが釜を挟んで相対し、部屋中に鳴り響く釜の音で占うという大変奇妙な神事である。伝説は単なるお話に留まらず、現実の場に再現されているのだ。
ミコトの戦いをモチーフとするこの伝説は何に由来するのか?それはミコトによる実際の戦いを映していると考える。ミコトによる吉備制圧の戦いのことだ。おそらくそれは余りに壮絶だったのだろう。否が応でも人々の記憶に強く刻印され、やがて伝説と化した。とともに、その戦いが招いた余りに根深い怨念への恐れから、滅ぼされし者の御霊を鎮めないわけにはいかなかった。それが件の神事の起こりに違いない。鬼とは彼らの怨霊に他なるまい。だとするとそれは只事ではない。吉備が単なる一地方勢力ではなくて、大和王権に対抗する一大勢力の拠点だったからこそ、その鎮魂が今も厳かに行われているのだ。
以上より、吉備こそが邪馬台国の所在地として最も蓋然性が高いと考え、ここに邪馬台国吉備説を提唱する。


【注】
〔1〕西嶋定生『倭国の出現ー東アジア世界のなかの日本』東京大学出版会 平成十一年
〔2〕寺沢薫『日本の歴史 第二巻 王権誕生』講談社 平成十二年
〔3〕泰始二年(西暦二六六年)に倭人が朝貢したという『晋書』の記事を最後に我が国は中国の文献から姿を消し、それ以後約百五十年間は空白となる。
〔4〕『後漢書』倭伝に「邪馬台国」の註として「案ずるに今、邪摩惟と名づくるは音の訛なり」とあり、また『隋書』倭国伝には倭国について「その地勢は東が高くて西が低く、邪摩堆に都する、これすなわち『魏志』のいわゆる邪馬台である」とある。
〔5〕若井正一『ヤマトの誕生 第一巻』文芸社 平成十六年
〔6〕楯築墳丘墓に関する記述は、近藤義郎『前方後円墳の起源を考える』(青木書店 平成十七年)に依る。


◆筆者紹介=わかい・まさかず
昭和三十六年、東京生まれ。昭和六十二年、名古屋大学医学部卒業。平成六年、同大学にて医学博士号取得。現在、静岡県内で内科医師として勤務中。静岡県掛川市在住。著書に『ヤマトの誕生 第一巻』(文芸社)がある。