● 中国共産党に徴兵された日本人少女たち

◆ 毛里 一*2014-09-28

内容紹介

1945年8月15日以降、日本人は、自分たちが戦勝国から受けた扱いを敗戦国民として、仕方がなかったことと諦めている。中国軍に徴兵された少女たちを例として、この問題について考察を試みる。

1 はじめに

第2次世界大戦後、中国大陸に居た日本人のうち約60万人がソ連軍にとらわれとなり、シベリアに抑留され、強制労働を強いられ、飢えと寒さで約6万人が死亡した。これはよく知られている事実である。 しかしながら、中国共産党軍(八路軍)に徴兵された人々のことは、あまり知られていない。中国共産党の勢力下でも同様なことが行われていた。しかも、洗脳と懲罰を用いていた。 一方、中国国民党は、師団レベルの日本軍部隊へ、内戦への参加協力を依頼した。しかしポツダム宣言の規定と米国からの勧告により、蒋介石総統は国民党勢力下にいたすべての日本軍および日本人を日本へ帰国させた。 共産党に徴兵された日本人は従軍中、日本へ窮状を訴えるすべがなく、帰国後は中国革命への参加は名誉なことであったとの自身への理由づけによる納得と日中友好という政治的理由で、これらの事実は積極的に公表されず、封印され続けた。そして、これらの人の多くが被害者意識を持つことを出来ずに長い時間が過ぎた。しかし今、洗脳が解け始めた人々と研究者によって、事実が明らかになってきている。

2. 徴兵された15歳の少女

薄暗い講堂に少女たちは集められていた。その中の1人、中本郁子(仮名)は不安であった。彼女は幼いころに満州ハルビンへ渡った。父が満州に本拠を置く会社の技師であったので満州国へ住むようになり、日本の敗戦までは穏やかな上流家庭に育った。それが敗戦以降、目まぐるしく生活が変わり、そしてこの日を迎えたのであった。 1945年8月9日、ソ連軍は日ソ不可侵条約を一方的に破って満州へ侵攻した。そして満州方面は、日本の敗戦後にソ連と中国共産党軍(八路軍)の勢力下に入った。これらの地域に居留していた日本人市民は朝鮮に近い安東(現在の地名は丹東)方面の収容所へ集められていた。 昭和21年のはじめころから、20歳未満の日本人女子に中国共産党の軍隊である八路軍への参加が呼びかけられている、との話が日本人の間で広がっていた。 そして3月の今日、収容所の14歳以上の少女たちが突然集められた。中国人の収容所長から、八路軍への参加がいかに栄光に満ちたものであるか、中国共産党の目指す革命がいかに素晴らしいものであるかの演説をひとしきり聞かされた。そののちに日本人の少女たちは要請を受け入れたと云う形の強制により中国八路軍へ徴兵されることを宣告されたのであった。 中本郁子は、目が回るほどの衝撃を受けた。いままで、父母と離れたことのない少女である。これからは、言葉も習慣も違う共産党軍の兵士と戦場を駆け回ることになる、具体的な困難など全く想像ができなかった。彼女は、同年5月、15歳の誕生日を戦場の病院で迎えたのであった。そして彼女が日本へ帰国したのは昭和28年であった。

3. ポツダム宣言受諾の意味の考察

第2次世界大戦で日本は無条件降伏をした、と多くの日本人は信じこまされている。そして敗戦後の日本人のそれぞれが受けた処遇について諦めの中にいる。しかし、日本は連合国側が提示したポツダム宣言を受け入れて降伏したのであり、正確に言えば無条件降伏ではない。1945年8月の日本が受け入れた降伏とは、日本側からは降伏についての条件を提示できなかった、との意味であり、ポツダム宣言という、連合国側自らが示した条件を受諾し降伏した、との解釈がより正しい解釈である。

そこでポツダム宣言を確認のために以下に抜粋して書く。

『ポツダム宣言Ploclamation defining terms for Japanese surrender』

署名1945年7月26日

第1条「戦争終結の機会」吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及びグレートブリテン国総理大臣は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与えるに意見一致せり。

第5条では、「戦争終結の条件」として、連合国自身が提示した条件を遵守することを約している。それは以下の様に記している。

吾等の条件は左の如し
吾等は左条件より離脱することなかるべし。左に代る条件存在せず。吾等は遅延を認めるを得ず。

第5条でこう述べたのち、第6条から連合国側の条件を記している。そして第9条の条文は、「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたるのち各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」 すなわち兵士たちの日本への速やかなる帰国が宣言されている以上、これらの兵士たちを自軍の用のために強制的に自軍の構成員として徴用することは、ポツダム宣言に明確に違反している。 まして、一般の日本人市民を強制的に徴兵し、協力しないものへは懲罰を与えて自軍の兵士として用いたことは明確に赤十字ジュネーブ条約の一般人保護の規定とポツダム宣言に違反している。中国共産党は、こうした国際法違反行為を行っていた。そしてこれらの徴用された人々の中には、前記のように当時15歳くらいの少女たちも含まれていた。

日本人兵士と技術者の留用
日本軍の軍医、従軍看護婦、技術者も中国軍に捕まり、同様に帰国を約10年も延ばされ、労働を強制された。これらの行為は「留用」という言葉で呼ばれている。要請を個人が受け入れたという形をとっていたが、断れる状況ではなかったことは、日本への帰国後にこれらの人々が語っている。これらの人々は捕虜としての待遇を受け、速やかに本国へ送還されるべきであって、中国八路軍の行為は、国際法(ジュネーブ条約)違反の行為である。中華人民共和国成立後も、日中間に正式な国交が長い間、樹立されなかった。日本政府は、救済の手を差し伸べられなかった。そして大陸に残留していた日本人は、日本からの救済を得られない以上、中国側からの言いなりに労働、生活し、生きながらへ、帰国の機会を待つしか手段がなかったのである。

4. 戦死した日本人女性

一般の少女たちは、看護の技術を持たないので付添婦として、八路軍と行動を共にすることになった。その後の国共内戦における戦闘では共産党軍の部隊と行動を共にした。病死した人も戦死した人もいる。 戦死した中の1人に、立元小枝子(仮名)さんという方がいる。終戦時、彼女は18歳であった。彼女は、女学校卒業時の昭和18年に時の満州国政府職員募集に応じて満州へ渡った。死亡時の様子については、外務省の死亡現認書に詳細に記録されている。 それによれば「(死亡)昭和23年12月6日16時。(死因)中背部炸傷。破傷風を併発し呼吸麻痺による死亡。(場所)中華民国熱河省承徳省立病院。(現認者)同病院医師勤務中のMM医師(大正12年1月14日生まれ、長崎県北松浦郡御厨町)。そしてMM医師の手で承徳郊外に埋葬」とある。 炸傷とは聞き慣れない言葉である。この場合は、砲弾等の爆発により、やけどを被ったものと考えられる。

5. 洗脳教育

徴兵された彼女らは、大方が衛生隊の所属であった。そして、時間があれば、中国革命の理念とそれに参加することの大義について洗脳教育を受け続けていた。具体的に言えば、人民裁判で非難され、射殺される光景の見学の強要とそのことへの反対意思を封殺などであった。こうして、自分の置かれた状況についての不満の感情が鈍くなっていった。 ついに彼女たちは、命令されるままに野戦の戦場を駆け巡り、戦病者の介護に、時には自らも傷つきながら、当るようになったのであった。 こうした艱難辛苦の末、昭和28年頃から彼女らの帰国が始まった。そのとき、彼女たちに与えられていた数々の従軍記章は、中国政府の預かりとなり、携行して帰国することが許されなかった。

6. 中国の隠蔽工作、まとめ

これらの従軍記章は、数年のちに彼女たちへ日本で返還されることになった。しかし、それには、以下のような文が添えられていた。
「皆さんが、かつて中国革命にささげた青春の日の代償として受けていた各種解放記念賞は、諸般の事情から日本へ帰国する際、中国政府へ一時預けとなっていました。その後、関係者各位から中国の各方面に対してこの記念賞の返還希望が出されていましたが、各界、日中平和友好会を通じて、新しく東北・華北・華中南の記念賞を製作のうえ、有資格者に返還される旨、正式に通知がありました。
日中平和友好会では、その会員以外にも多くの有資格者が存在するという確認のもとに去る11月14日に全国各地に組織されている戦友会や親睦団体の代表者の参集を願い、その取扱い方法を協議し次のことを決定しました。

  1. @中国側の誠意を関係者に理解してもらい、日中友好に役立てる。帰国時に記念賞を預けてきた人で、現在返還を希望する人に対しては、事業にもとづいて、公平かつ円満に変換する。
  2. Aまず、有資格者を優先し、その後、当時記念賞を受けていなかった有資格者にも渡すことを考える。
  3. B本来、この記念賞は、中国側から無償返還されるものであるので、できる限り、経費と手数を省いて返還できるよう努力する。
  4. C返還事務は努めて会員の所属する関係戦友会、親睦団体を経由して進めるが、いずれの団体にも所属していない有資格者がある場合は、その事務は直接、記念賞受賞委員会が代行し、個人への交付の促進を図る。
  5. Dそれぞれの所属団体は、その実情に応じて事務費(通信費)を徴収する。
  6. E中国側の意向を尊重し、できるだけテレビ・新聞などへの発表をしない。」

東北解放記念賞実物写真

東北解放記念賞実物写真 第6項に注目して頂きたい。この項目は、何故にわざわざ挿入されているのであろうか。それを推測するのに挙げるのが朝鮮戦争への中国義勇軍参戦と八路軍に徴兵された日本人の不参戦である。 1949年、大陸における国民党と中国共産党の内戦はほぼ終了し、毛沢東が北京の天安門上で中華人民共和国の成立を宣言した。 直後に朝鮮戦争が勃発、初めは優勢であった北朝鮮軍が国連軍の反抗に遭い、鴨緑江まで追い詰められた。その時に中国共産党は義勇軍という形で軍を派遣することを決定した。当初、派遣を予定されていた軍の中に徴兵した日本人たちも入っていた。しかし、軍内部から、国際戦争に第3国人(戦争の当事国でない国の国民)を参加させたことが公になった場合、国際的に非難される可能性があるとの意見があがった。そして、日本人の中国共産党軍員の朝鮮戦争への参加は無かったのである。 これらのことから中国共産党の軍部も、内戦とはいえ日本人を徴兵し、内戦に参加させていることは国際法に違反していることを承知していた、と推測できる。 日中国交回復を目指していた中国は、日本人少女たちを徴兵していた事実を、日本国内で中国非難に利用されることを恐れて公表しないようにしていたものと考えることが出来る。

こうした苦難の目にあった日本人の正確な数は不明であるが千名を超えるであろう。国民党との内戦で中国共産党軍に徴兵された日本人へは、過去も現在も、共産党の現中国政府から何らの補償もなされていない。

主要参考文献

◆筆者紹介=もり はじめ
防衛大学校安全保障研究科卒、元防衛大学校防衛学准教授。
埼玉県所沢市在住。
著書:『台湾海峡紛争と尖閣諸島問題』彩流社。
共訳書:『アメリカ社会と戦争の歴史』彩流社。

特別研究