2007年6月〜同年11月 登録順
【注】まず、地区、★話題、以下、@掲載新聞など A掲載日 B内容 Cコメンテーター Dコメ ンテーター肩書 Eコメント要旨
□関西★田村麻呂の墓か 山科・西野山古墓 文献で一致@京都新聞A07年06月04日B平安時代初期の征夷大将軍で清水寺(京都市東山区)を創建した坂上田村麻呂の墓が、山科区西野山岩ヶ谷町の「西野山古墓(こぼ)」である可能性が高いことが、京都大文学研究科の吉川真司准教授(日本古代史)の文献調査で、四日までに分った。C吉川真司先生D京都大文学研究科 准教授(日本古代史)E「古墓の近くを通る滑石街道は、当時、東国から都に入る主要ルートだった。都の玄関口でにらみをきかす意味もあったのではないか」
□関西★永徳の屏風絵、新発見!@日本経済新聞A07年06月06日B安土桃山時代を代表する絵師、狩野永徳(1543〜90)が平等院や嵐山など京都郊外の名所を描いた屏風(びょうぶ)絵「洛外名所遊楽図屏風」が京都市内で見つかり、京都国立博物館(同市東山区)が5日、発表した。2005年7月、同博物館で勤務していた狩野博幸・同志社大教授(日本美術史)が京都市内の古美術商方で発見。洛中洛外屏風などと比較し、躍動感のある筆遣いや細部の描写から真作と判断した。制作時期は分っていないという。C山本英男先生D京都国立博物館保存修理指導室長E「筆遣いなどから間違いなく永徳の作品。保存状態も良く、第一級の発見」
□関西★高松塚古墳から古代顔料を発見 @朝日新聞A07年07月14日B奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末〜8世紀初め)で、石室の床石に残った僅かな堆積(たいせき)物から、金箔(きんぱく)や漆膜(うるしまく)、赤、青、緑の古代顔料などが計102点見つかった。文化庁が13日発表した。大半は1ミリほどのごく小さな破片だが、提供された写真を見ると、色彩は鮮やかで、小さな宝石のようだ。C松村恵司先生D奈良文化財研究所考古第一研究室長E「金箔や漆膜は、盗掘で木棺を動かした際に飛び散ったのだろう。顔料は壁画を描く際にこぼれた可能性もある」
□首都圏★坂本龍馬の妻おりょう、晩年は孤独・横須賀の研究家が本に@毎日新聞A07年07月16日B坂本龍馬の妻おりょう(1841〜1906)が後半生を過ごした神奈川県横須賀市に住む歴史研究家、鈴木かほるさん(61)が、おりょうの生涯を本にまとめた。タイトルは『資料から語る坂本龍馬の妻・楢崎龍(りょう)』(新人物往来社)。約200頁で、半分を資料の図版約120点が占める。鈴木さんは国学院大文学部卒。主婦業のかたわら中世史を研究し、4年前に同市からおりょうの資料収集を依頼され、本格的に研究を始めた。C鈴木かほる先生(61)D歴史研究家E「晩年は酒浸りになったと伝えられるが、そういう資料はない。ただ孤独で、心の頼りは龍馬しかいなかったのでは」
□関西★壮麗なる若草伽藍 法隆寺で鴟尾片出土 @産経新聞A07年08月29日B法隆寺(奈良県斑鳩町)の東大門北側で、現在の同寺の前身「若草伽藍」のものとみられる飛鳥時代(7世紀)の鴟尾の頂部破片が出土し、奈良県教委が28日、発表した。鴟尾はこれまで金堂跡などで確認されているが、今回の出土場所は伽藍推定範囲の北東隅付近に当たる。これまで見つかった破片の中でも最大で、若草伽藍の壮麗な姿をうかがわせる発見となった。C森郁夫先生D帝塚山大教授(歴史考古学)E「今回の発見は若草伽藍の講堂や回廊などにも鴟尾があったことをうかがわせる。若草伽藍については壁画片も見つかっており、壮麗な姿だったことだろう」
□関西★『太平記』の記述そのまま 笠置山に 後醍醐天皇の篭城遺構@京都新聞A07年08月31日B京都府笠置町にある国の史跡・名勝、笠置山を発掘調査している府埋蔵文化財調査研究センターは30日、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を目指して笠置山に立てこもった元弘の乱(1331年)前後の排水溝や建物跡が見つかったと発表した。排水溝は岩を削ったり、加工した石を積み重ねて造営している。『太平記』の記述そのものの風景が現れた形で、堅固な寺の様子が明らかになった。C鋤柄俊夫先生D同志社大准教授(中世考古学)E「武装した山岳寺院は、戦国期に多くみられるが、14世紀の例はほとんどない。基本的には谷筋をひな壇状に切り開いた古代以来の山岳寺院だが、尾根筋にも同様のひな壇が造られており、尾根筋の施設が戦闘的なものとすれば、戦国大名が構築した山城の先駆的な形態として注目される。」
□関西★国宝・正倉院の屋根瓦など、二年間かけ本格的修理へ @読売新聞A07年08月31日B宮内庁は、聖武天皇の遺愛品など奈良時代の宝物が納められている国宝・正倉院(奈良市)を2011年度から二年間かけて、屋根瓦などの本格的な修理をする。1913年以来、約100年ぶりになり、同庁は、古代建築の専門家らでつくる懇談会(6人)を9月に設置、具体的な修理計画を検討する。C巽耕一先生D宮内庁管理部工務課長E「瓦の寿命は約80年といわれ、修理が必要と判断した。2010年に開かれる平城遷都1300年記念事業の後に実施したい」
□関西★古墳時代にねこ渡来@産経新聞A07年09月04日B兵庫県姫路市四郷町の見野古墳群6号墳」から、ネコではないかとみられる小動物の足跡がついた6世紀末〜7世紀初頭の珍しい須恵器が発掘された。ネコの足跡とすれば、渡来は奈良時代(8世紀)という通説を覆し、古墳時代にすでにネコが渡来していたことになり、日本史を塗り替える新発見となるかもしれない。C南部裕樹先生D立命館大講師E「見たことも聞いたこともない」
□関西★権力を誇示「太閤堤」堂々 宇治川で大規模な護岸発見@京都新聞A07年09月06日B京都府宇治市菟道の宇治橋下流で、豊臣秀吉が築いた太閤堤(たいこうつづみ)とみられる大規模な護岸工事が見つかったと5日、同市教委が発表した。対岸の太閤堤と同じ宇治川上流の石を用いており、秀吉が宇治川を付け替える際に造らせたと推定される。急流が直接当たらないよう石出(いしだし)を設けたり、石積みが崩れないようくいを使っており、当時の治水技術がうかがえる。水に没しない部分にも装飾用の板石を並べており、市教委は「権力を示したいという秀吉の思いの表れでは」とみている。C畑大介先生D帝京大山科文化財研究所保存修理研究室長(中世考古学)E「この時期の治水の実像を知る上で、極めて重要な発見だ」
□東海★安土城、焼失は二代目? 炎上の4年前に「倒壊」の古文書@朝日新聞A07年09月15日B織田信長の居城・安土城の天主は、初の高層天守だったとして名高い。本能寺の変の後放火され、焼け落ちたとされている。だが、炎上前に一度倒れたと記した古文書の写しが金沢市に残っていた。記述が事実なら、焼失したのは二代目で、再現考証にも影響しそうだが……。写しを所蔵すのは金沢市立玉川図書館近代資料館。信長の研究家で、関係資料を収集している奈良県大和高田市の和田裕弘さん(45)が今春、加越能文庫の「松雲公採集遺編類纂」を撮影していて気付いた。C木戸雅寿先生D滋賀県文化財保護協会・調査整理課長E文献と考古学の双方の見地から、「(倒壊は)あり得ない。記述は誤記と言わざるを得ない」
□北陸★二上山山頂に城郭か、高岡市教委が防御施設の遺構見つける@北国新聞A07年09月18日B高岡市の二上山山頂に南北時代から戦国時代にかけて城郭が存在した可能性があることが、17日までの同市教委の調査で分かった。山頂につながる尾根筋に、山城特有の防御施設の遺構などが見つかった。二上山では山頂より標高が低い場所に守山城が築かれたが、遺構の発見で山頂にも一時期、城が存在したと推定される。市教委は前田家関連史跡として、守山城の変遷を含めて二上山での築城の解明を進めていく。守山上は天正十三年(1587)、佐々成政を破った前田利長が入城し、これが前田家の越中統治の始まりとなった。松倉城(魚津市)、増山城(礪波市)と並んで越中三大山城とされるが、他の二つに比べて全容解明が遅れている。
□山陰★島根県の大志戸2たたら跡で製鉄炉跡 @山陰中央新報A07年10月11日B雲南市吉田町の大志戸(おおしど)2たたら跡で、鎌倉から戦国時代(13世紀〜16世紀)の製鉄炉四基が見つかったと島根県埋蔵文化財調査センターが10日、発表した。隣接する遺跡でも2基が出土している。中世の製鉄炉跡が一つの谷で6基もまとまって発見されるのは全国でも珍しく、周辺地域が独自の製鉄技術を持った一大中心地だったと考えられる。C田中義昭先生D元島根大教授(考古学)E「出雲地方が江戸時代、重要な鉄生産地だったことは知られているが、中世から集中的で継続性のあるアイアンゾーン≠ェ形成されていたことが明らかになった。非常に意義深い。個性的な構造で、冶金(やきん)産業の中核的地域であったことを証明している」
□九州★熊本県八代市の民家から朝鮮の古面、秀吉出兵時、持ち帰る@西日本新聞A07年10月12日B熊本県八代市の市立博物館「未来の森ミュージアム」は11日、16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵に動員された農民が、朝鮮半島から持ち帰ったとみられる仮面が同市松江町の民家で見つかったと発表した。同博物館は「従軍した八代城主・小西行長の行動や韓国仮面史を探る上で貴重な資料」と注目している。C田耕旭先生(チョンキョンウク)D韓国仮面史研究の第一人者、高麗大E「朝鮮半島で作られたものに間違いない。民家の伝承も信頼できる」
□甲信越★縄文中期の土器に栽培種大豆の痕跡、食生活の多様性を示す@読売新聞A07年10月18日B山梨県立博物館(山梨県笛吹市)などの研究グループは17日、同県北杜(ほくと)市で出土した縄文時代中期(約5000年前)の土器内部に、国内最古の栽培種大豆が埋まっていた痕跡を確認した、と発表した。C西本豊弘先生D国立歴史民俗博物館(環境考古学)教授E「同様の発見が続けば、これまでの縄文時代の食生活の定説を塗り替える可能性もある」
□関西★銅鐸は赤銅色だった 破片から分析[唐古・鍵遺跡]@奈良新聞A07年10月19日B田原本町教育委員会は18日、弥生時代最大の環濠(かんごう)集落跡である同町の唐古・鍵遺跡で見つかった同時代中期(紀元前2世紀ごろ)の銅鐸片の組成分析を行った結果、スズの含有量が少なく、鋳造当初は新品の十円硬貨のような赤銅色だったことがわかった、と発表した。表面の汚れなどの影響を受けない内部の健全な部分を採取して分析する画期的な調査。今後の銅鐸研究における貴重な資料となった。C村上隆先生D奈良文化財研究所上席研究員E「これまでは蛍光エックス線による非破壊調査が主流だったが、今回は破片の角を裏側から三角形に薄く切り取り、最新の分析機器で金属組織の観察や材質などを調べた。」
□関西★山田寺跡から金堂壁画の断片、国内最古級の可能性@朝日新聞A07年10月20日B奈良県桜井市の山田寺跡の出土品に、国内最古級の壁画の断片が含まれていたことが19日、奈良文化財研究所の研究でわかった。12世紀後半に焼失したとみられる金堂(643年創建)に描かれた仏画の一部だったらしい。絵柄は不明だが、同県斑鳩町の創建法隆寺(若草伽藍、7世紀初め)に次ぐ壁画の可能性がある。
□沖縄★沖縄で先史時代の人骨発見@佐賀新聞A07年10月21日B沖縄・宮古島の歴史解明に取り組んでいる西九州大リハビリテーション学部のマーク・ハドソン准教授(44)が今年7月、5〜8世紀より前とみられる人骨を発掘した。発掘場所は、島北部の内陸部にある17世紀〜18世紀の風葬跡「長墓」付近の貝塚。昨年の調査で貝塚を深さ50センチ掘ったところ、貝斧(かいふ)や魚の骨などを発見した。C土肥直美先生D琉球大医学部准教授(形質人類学)E「2万年以上前から12世紀ごろまでの空白期を埋める意味で重要な発見といえる。」
□山陰★出雲で人面付き土器の破片が出土@山陰中央新報A07年10月23日B出雲市文化財課は22日、発掘調査を進める同市上塩冶町の築山(つきやま)遺跡で、縄文時代末から弥生時代前期に作られたとみられる人面付き土器の破片が出土した、と発表した。祭祀に使われたとされる人面付き土器は、関東や中部地方に出土例が多いが、西日本では珍しいという。C山田康弘先生D島根大准教授E「関東や中部の人面付き土器と、顔の表面が違う。出雲は東西の交流拠点として、独自の文化を形成していたのではないか」
□関西★豊臣家、最後の晩餐? 大阪城で陶器・魚の骨が大量出土@朝日新聞A07年11月01日B大阪市中央区の大阪城三の丸跡の北辺から、箸や陶器、魚の骨、貝類などが大量に出土した。調査した大阪市文化財協会によると、17世紀初めの慶長年間後半のものとみられ、大阪夏の陣(1615年)で豊臣氏が滅びる直前、大規模な宴会が開かれたことがうかがえるという。
□関西★安土城に跡に新たな謎 これまでの城域の概念覆す発見──城外路は本当は城内路の可能性@滋賀報知新聞A07年11月03日B安土城を防御するための堅固な石垣と城壁が続くと考えられていた場所から、城壁に沿って通るこれまで城外路と考えられていた道とあまり段差のない、出入りしやすい入り口「虎口(こぐち)」が発見された。C近藤滋先生D安土城郭調査研究所所長E「そこに入り口があってはこまる所から虎口が出てきた。どこまでが城の内か外かを考え直さなければならない必要を生じる大きな発見」、「防御的にもこの虎口を含む石垣が城の南限とは考えにくい。これまで城外路と考えられていた道は城内路の可能性が高く、城の外郭はさらに南側にあったと考えられる」
□関西★大極殿院回廊跡の一部が出土@読売新聞A07年11月23日B奈良時代の740〜44年、聖武天皇が都を置いた恭仁(くに)宮跡(京都府木津川市賀茂町)で、国家的儀式を行う正殿・大極殿を囲む大極殿院回廊跡の一部が出土したと、府教委が22日発表した。回廊の北西隅が確認できたことから、従来の遺構などと合わせて考えると、大極殿院回廊の東西幅は148・6メートルに達する。これは平城宮の約8割の規模にあたる。C和田萃(あつむ)先生D京都教育大名誉教授(日本古代史)E「建築に制限がある地形ながら、豪壮な宮城を建てようとした意図が見え、南側からみた恭仁宮はかなり豪華なものであったのではないか」
□九州★銅戈9本が見つかる 小郡市の寺福童遺跡から 祭祀解明する手がかりに@西日本新聞A07年11月22日B2004年に弥生時代の銅戈(どうか)9本が見つかった福岡県小郡市の寺福童遺跡(てらふくどう)遺跡で、当時の人々が銅戈を繰り返し埋めなおす祭祀(さいし)を行っていたとみられることが21日、同市教育委員会の調査で分かった。同様に青銅器を何度も埋納していたとされるのは、北九州市小倉南区の重留(しげとめ)遺跡に次いで全国で2例目。調査結果は、当時の祭祀の解明につながる可能性があるという。C武末純一教授D福岡大人文学部(考古学)青銅器に詳しいE「寺福童遺跡は、集落から離れた場所で掘り返しが繰り返されていた点で、神に捧げる埋納儀式を探る手掛かりとして貴重だ。当時は稲作が普及しており、銅戈は五穀豊穣(ほうじょう)を祈る農耕の儀式に何度も使われていた可能性が大きい」
□関西★国内最大級の管玉出土 守山・欲賀南遺跡から@京都新聞A07年11月23日B滋賀県守山市教委が発掘調査中の欲賀(ほしか)南遺跡(同市欲賀町)から、古墳時代の製品とみられる全長8センチ近い大型の管玉1個が22日までに見つかった。全国でも最大級で、市教委は装身具として使われた可能性が高いとみて調査している。管玉は長さ7・7センチ、直径2・2センチ。軟質な緑色凝灰岩製で、中央に直径約5ミリの穴が貫通している。遺跡内で古墳群跡が見つかっていることから、市教委は古墳時代前期から中期にかけての4世紀に作られ、古墳に副葬されたと推測する。C大賀克彦先生D島根古代文化センター特任研究員 管玉に詳しいE「長さ4センチ、直径1センチを超す管玉の出土例は極端に少ない。国内最大級で希少価値も高い」、「管玉の大きさと出土した遺跡や古墳の規模に相関はみられず、大型の管玉が必ずしも有力な豪族と結び付くとは限らない」
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